第17話 反乱の火
王都ヴァレイドの喧騒から遠く離れた、木々に隠れるような小さな集落。その古びた教会の一室に、粗末な野良着に身を包んだ男たちが集まっていた。彼らの鋭い眼差しと、衣服の隙間からのぞく鍛え上げられた肉体は、彼らがただの村人ではなく、姿を消していた元王宮騎士たちであることを雄弁に物語っていた。
その中心に立ち、熱を帯びた瞳で地図を見つめているのは、かつて一兵卒でありながらその剛勇で知られた若き騎士、ネアルコ・リンドだった。
「時は満ちた。王女ナスルーラ様はこの地でご健在だ。今こそ我らが旗印を掲げる時が来た」
教会の奥座敷、清廉な光が差し込む一室には、あの戦火を生き延びたナスルーラが静かに匿われていた。ネアルコは筋骨逞しい拳を机に叩きつけ、集まった同志たちを見回す。
「正当なる国王陛下の血筋であらせられる王女殿下が立てば、抑圧に喘ぐ民も、日和見の貴族も、在野の猛者たちも必ず立ち上がる。全土が蜂起すれば、ドナテロの鉄塊どもなど容易に押し流せる。再び我らの手に、独立したヴァルフォードを取り戻すのだ!」
彼の熱烈な言葉に、騎士たちは拳を握りしめ、低く歓声をあげた。
ネアルコは心の底から信じていた。 王女ナスルーラこそが、この国を再び一つにする希望なのだと。だからこそ、その希望のためなら、どれほど多くの命が失われようとも構わない。 その狂信にも似た覚悟が、静かな教会を異様な緊張で包み込んでいた。
王都ヴァレイドでは、表面上の平穏という皮膜が、限界まで引き伸ばされて薄くなっていた。積もり積もった不満は、もはや爆発寸前のガスのように街の底でドス黒く渦巻いている。誰もが気づいていた。この凪は、嵐の前の静けさに過ぎないことを。
そしてついに、危うい均衡を粉々に打ち砕く事件が起きた。
郊外の大通りを、一台の帝国軍物資搬送馬車が勢いよく駆け抜けていた。不意に路地から飛び出した一人の少女が車輪に跳ね飛ばされ、片目の視力を失う凄惨な怪我を負ったのだ。それは純然たる事故だった。
だが、その日の夕暮れには、街中で様々な不穏な噂が飛び交っていた。
「帝国兵がわざと轢いたらしい」
「被害に遭ったのは王国軍人の娘だ」
「次は自分たちの子供が狙われる」
真偽など、もはや誰も確かめようとはしなかった。怒りと恐怖は人から人へと瞬く間に伝わり、夜が明ける頃には、誰もが“帝国の暴虐”を疑わなくなっていた。
翌朝、人々の不満と怒りはついに爆発した。
数千の民衆が、波のように王城へと詰めかける。 民衆の先頭には農具を握りしめる男たち、その後ろには叫ぶ女たち、子を抱き締める母親、怒号をあげる老人たちまでが押し寄せていた。
王城のバルコニーからそれを見下ろすシアの顔から、血の気が引いていた。 故意ではない、制動が間に合わなかったのだと叫ぶ憲兵たちの説明など、群衆の怒号にかき消され、誰の耳にも届かない。
シアは進退極まった。ここで自分が長官として帝国を擁護すれば、民の怒りは憎悪の津波となって帝国による完全な武力鎮圧の大義名分を与えてしまう。かと言って暴動を放置すれば、ドナテロ軍は容赦なく彼らを制圧するだろう。
最悪の思考が頭を支配したその時、背後から血相を変えた伝令が飛び込んできた。
「長官!後方、城門に向けて、かつての王国騎士たちの軍勢が押し寄せています!その数、およそ数百!」
シアの背筋に、氷水を浴びせられたかのような激しい悪寒が走った。あまりにも、タイミングが良すぎる。
(……そういうことか)
シアは、散らばっていた点が一本の線で繋がるのを感じた。
少女の事故そのものではない。彼らは、この事故を待っていたのだ。 民の怒りへ火をつける導火線として。噂を流し、人々を煽り、積もり積もった憎悪へ一気に火を放つために。
もしここでドナテロ軍と反乱軍の全面戦争――王都全域を巻き込む内戦が始まれば、帝国の本隊が動き、この国は灰になる。そして、彼らが旗印として掲げているであろうナスルーラの命も完全に消える。
『シア。ナスルーラの笑顔が絶えぬよう、そなたの清き心が、彼女の支えとなってくれることを期待しているよ』
脳裏に、ヴァルフォード王の震える手の温もりが蘇る。 ここで血を流させてはならない。彼らの思惑通りに、この門を戦場にさせてたまるものか。
民を守るため。王女を救うため。自らの身を削り、すべての泥を被る覚悟を。
シアは固く目を閉じた。幾千もの破滅の未来を、脳裏で一瞬にして切り捨てる。
シアは静かに顔を上げた。 その瞳から、迷いだけが消えていた。
そして、喉がちぎれんばかりに、胸いっぱいに息を吸い込んで叫んだ。
「――城門を開放せよ!!」
その凛とした絶叫は、暴動の騒音を切り裂き、王城の重い鉄の門を動かし始めた。 シアの、己の命を賭した狂気の防衛戦が、幕を開けようとしていた。




