第16話 残された者たち
王都ヴァレイドの空は、重く低い雲に覆われていた。街路にはドナテロ帝国の黒い軍旗が随所で翻り、瓦礫は綺麗に片付けられ、市場には以前と変わらぬ活気すら戻りつつある。
一見すると平和そのものの光景だった。だが、人々は風に揺れる軍旗や、行き交う帝国兵の鉄甲の擦れる音を耳にするたび、一瞬だけ静かに視線を曇らせていた。
帝国側の長官としてこの地に赴任したシアを待っていたのは、かつて彼女を「ヴァルフォードの至宝」と称えた民衆たちの、あまりにも冷ややかな変貌だった。
「……裏切り者が」
政庁へと続く大通りを歩くシアの背に、小さな、しかし鋭い罵声が浴びせられる。足元に投げつけられた小石が、かつての純白ではない、帝国の軍服の裾を汚した。
民衆の反発は、露骨な暴動ではなく「消極的拒絶」という形で彼女の心を削っていく。 シアが近づくと、それまで賑やかだった商人たちはピタリと会話を止めた。品物は売る。長官である彼女の命令にも従う。だが、誰一人として彼女と目を合わせようとはせず、差し出された代金を受け取る手すら、汚いものに触れるかのように強張っていた。
(当然の反応だ……分かっている。だけど、私は……)
胸の奥が引き裂かれるように痛む。かつてヴァルフォード王に手を包まれ、「そなたの剣は、誰かを傷つけるためのものではない」と言われたあの温もりが、人として扱われない今の孤独をさらに際立たせる。
崩れ落ちそうになる膝を支えたのは、あの日耳元で響いた老王の遺言だった。
『シア。ナスルーラの笑顔が絶えぬよう、そなたの清き心が、彼女の支えとなってくれることを期待しているよ』
その言葉だけが、暗闇のなかで今の彼女を繋ぎ止める唯一の錨だった。
(私はまだ、倒れるわけにはいかない。ナスルーラ様を見つけ出すまでは……絶対に)
シアは冷たい視線から逃げることもせず、凛とした瞳を再び前方に向け、力強く歩み出した。
表面上の秩序が保たれているとはいえ、占領軍である帝国兵と、敗戦の屈辱に耐える人々との間で生じる火種までを消し去ることはできなかった。
ある夜の酒場では、酒に酔った帝国兵が「敗戦国の分際で、この程度の酒を出すのか」と店主の胸ぐらをつかみ、あわや乱闘の寸前となる。シアが即座に間に入り、暴れる兵を下がらせて事態を収めた。
さらに深刻だったのは、共同警備の現場だ。作業の遅れを巡って双方の不満が爆発し、煽られた元騎士たちが怒りに任せて一斉に抜刀したのだ。
「そこまでです。双方、剣を収めなさい」
シアは今にも襲いかからんとする元騎士たちの前へ、自ら真っ先に割って入った。
身体を張って両者の間に入り、双方の殺気を自分一人で受け止める。その上で、不遜な態度を崩さない帝国兵へ静かな視線を向けた。
「ここで互いに剣を抜けば、最後に苦しむのはこの街の民です。……それだけは、絶対に許しません。双方、武器を収めなさい」
理想論を語る余裕などない。ただ、目の前の破滅を止めるためだけに、シアは自らの気配を極限まで研ぎ澄ます。 誰の味方でもない、ただ民を守るためだけに立つその悲痛な眼差しと圧倒的な威圧感に押され、兵士たちは苦々しく武器を引くしかなかった。
それは根本的な解決ではなく、シアという一本の刃によって、辛うじて押さえつけられた危うい均衡に過ぎなかった。
街の調停に追われる合間を縫って、シアは王宮の使用人や、生き残った騎士の家族、かつて親しくしていた市井の人々を一人ひとり訪ね歩いた。
「姫様なら、きっと生きておられます」
「どこかへ逃げ延びられたと聞きました」
誰もがそう口にする。だが、その先を知る者は一人もいなかった。
「生きているらしい」
手に入るのは、そんな実体のない噂ばかりだった。
(何かがおかしい……)
誰も嘘をついているようには見えない。だが、どれだけ人を訪ね歩いても、最後の一本だけ糸が途切れたように、その先へ辿り着けない。
さらに不気味な事実が浮き彫りになってきた。生き残ったはずの王国騎士たちのうち、相当数が登録もされず、行方不明のまま消息を絶っているのだ。
所在のわからない王女。
そして、煙のように消えた王国騎士たち。
表面上の平穏を取り戻したヴァルフォードの裏側で、冷たく暗い影が確実に広がり始めていた。




