第15話 均衡という名の支配する
「……目覚めたか」
捕虜を収容する簡素な部屋の重い木扉が開き、エル・シャーリーが静かに姿を現した。 ベッドの上に身を起こしたシアは、無意識に腰元へ手を伸ばす。だが、いつもそこにあるはずの愛剣の感触はなかった。
「貴公の剣は私が預かっている。酷く身体を痛めているようだからな。今は休め」
エルは部屋の椅子を引き、シアと少し離れた位置に腰を下ろした。その双眸は、変わらぬ淡々とした均整を保っている。
シアは昏睡していた間のこと、そして戦争の結末について、掠れた声で問いかけた。エルは一切の感情を交えず、事実だけを並べていく。
戦争は終わったこと。ヴァルフォード王の崩御に伴い、王国軍は解体されたこと。王女ナスルーラについては公式には消息不明であるものの、極秘裏の情報網には「生き延びている」という確度の高い報告が入っていること。
「姫様が、生きている……」
シアの暗い瞳に、微かな、けれど明確な光が戻る。
「だが、状況は劣悪だ」
エルの淡々とした声が、その光を即座に遮った。
「王国内で王位を争っていた腐敗貴族たちが一掃された。首を失った民の動揺は小さくない。このまま我が帝国の駐留軍が王都を完全支配すれば、民衆との衝突は避けられまい。さらに、生き残った王国の騎士たちが地下に潜り、不穏な動きを見せているという報告もある。……これらが一時に爆発すれば、王都は血の海だ」
シアは奥歯を強く噛み締め、エルを睨みつけた。
「それを仕掛けたのは、貴方たち帝国だ」
「そうだ。だからこそ、貴公に仕事を与えよう」
エルは机の上に一通の書面を置いた。
書面の表題には、『ヴァルフォード駐留軍 特任長官 任命』と記されていた。
「今日から貴公が、この王都を預かれ。民衆と帝国の間に立ち、暴動を抑える橋渡しとなれ。……あの王の遺言を果たしたいというなら、これは貴公にしかできない仕事だ」
民を守れ。 老王の最期の声が、シアの脳裏に呪縛のように木霊する。
目の前にいる男が、自分を都合の良い看板として利用しようとしていることは痛いほど分かった。断れば、再び街に火が放たれ、民が死ぬ。
逃げ場など、最初からなかった。
シアはゆっくりと目を閉じた。それは承諾などではない。自らを鎖で縛りつける決断だった。
「……分かった」
絞り出すようなその声を聞き、エルはわずかに目を細めた。
数日後。限界まで酷使された肉体の回復を待って、シアは帝国の本隊から遅れて王都へと帰還した。
馬車の窓から外を覗き見たシアは、我が目を疑った。
勝者による略奪も、民への不当な抑圧も、そこには一切なかった。道を行き交う帝国兵たちは気味が悪いほど規律に満ちており、民衆に暴力を振るう者など一人もいない。
戦闘によって壊れた防壁や市街地は、すでに帝国が持ち込んだ資材によって迅速な修繕が始まっており、市場には以前と変わらぬ活気がある。商人たちの威勢のいい声が響く街の要所に、黒い軍服を着た帝国兵が佇んでいることくらいが、唯一の違和感だった。
ここが数日前に血を流して侵略された国だとは、到底思えない光景だった。
民が無事であることに、シアの胸には確かに深い安堵が広がった。 だがそれと同時に、逃れられない巨大な網に搦め捕られていくような、底知れぬ恐怖が彼女を支配していく。
あえて奪わない。あえて変えない。
暴力による支配ではなく、淀みのない完璧な秩序によって、ヴァルフォードという国そのものが、抗えない時代の濁流のなかで静かに融解していくようだった。
窓の外では、以前と変わらぬ穏やかな陽光が、活気に満ちた王都の往来を白白と照らし続けていた。
シアは、その眩しすぎる光景から、最後まで目を逸らすことができなかった。




