第14話 帝国の騎士
ドナテロ帝国軍総司令部。その一角にある兵団長室の夜は、常に書類をめくる音と、燭台の火が爆ぜるかすかな音だけで満たされていた。
漆黒の軍帽を机に置き、エル・シャーリーは山積みの戦後処理報告書に目を通していた。
淡々と書面を処理していくその姿には、一切の感情の揺らぎがない。大陸屈指の軍略家、あるいは「皇帝の冷厳な番犬」。それが、周囲が彼につける評だった。
エルはペンを置くと、引き出しから一束の特異な書類を取り出した。
表紙に記された名は――シア・ロードン。
エルは調査書に目を落とした。
孤児という生い立ち。他者を守るということに対して、異常なまでに純粋で盲目的な気質。そして、人智を超えたあの白金色の力が、彼女自身の肉体を内側から焼き尽くし、滅ぼしかねないという危うい特性。
(戦術兵器としての価値は計り知れない。どのような状況で、どう動かすのが最も効果的な『駒』となるか)
脳内でいくつものシミュレーションを繰り返す。彼女をどう管理し、どう使うか。それが、皇帝から自分に課された任務の重要項目でもあった。
だが、書類を見つめるエルの脳裏に、ふと、あの殺風景な部屋で泣き崩れていた少女の華奢な肩がよぎった。
王の遺言を聞いた瞬間、獣のようだった猛犬が、糸の切れた人形のように崩れ落ち、ただ子供のように涙を流していた。
あの涙だけが、盤上の一手として計算できなかった。
本来、エル自身は剣の道で名を馳せることなど望んではいなかった。
シャーリー家は代々、帝国屈指の武門だった。幼い頃から父の峻烈な剣術を叩き込まれ、十代にして大陸屈指と謳われるまでになった。
だが、エル自身が望んだ未来はそこにはなかった。彼が志したのは破壊の道具である剣ではない。国家の仕組みを構築する「政治」だった。
その計算を覆したのは、現・帝国皇帝エドワードの一言だった。
『エル・シャーリー。貴公を我が直属兵団の長に任ずる』
謁見の間で理由を問うエルに、皇帝はただ広大な大陸の地図を見つめたまま、淡々と告げたのだ。この国を支える「楔」となれ、と。
皇帝はただ一つの国家の繁栄ではなく、大陸全体のバランスを盤面として捉え、すべての物事を決定している。少なくとも、当時のエルにはそう見えていた。
望まぬ武官の地位に不満を燻らせていたエルだったが、皇帝の圧倒的な視座に触れ続けるうちに、いつしかその不満は、同じ高みへ至りたいという静かな渇望へと変わっていった。
大局を見る目を養う上で、戦場を指揮するという経験は、皮肉にもこれ以上ないほど都合の良い盤面となった。
今回のヴァルフォード侵攻――それは皇帝エドワードとヴァルフォード王だけが知る密約であり、大局を見据えた一手でもあった。
世界はドナテロ帝国を強欲な侵略者と呼ぶだろう。真実を知る者は、ごくわずかだった。それで構わない。皇帝は最初から、その汚名ごと引き受ける覚悟だった。
王国の腐敗貴族を一掃し、民を最も傷つかない形で帝国の傘下へ引き入れる。そして友である王の最後の矜持を守り抜く。
すべては、これから訪れる大陸の激動に備えるため。そして、友との約束を果たすためでもあった。
だからこそ、あとに遺されたシア・ロードンの処遇は極めて重要だった。
(使える)
(使うべきだ。それが国家だ)
エルは脳内で何度も結論を導き直した。
戦術兵器として彼女を組み込み、帝国のために使い潰す。それが最も合理的で、最も正しい選択のはずだった。
それなのに。
あの涙だけは、どうしても盤上の一手として処理できなかった。
この少女を、単なる都合の良い駒として使い潰すのが、本当に正しい打ち手なのか。
理詰めで世界を観測してきたエルの中に、生まれて初めて、計算の成り立たない問いが生まれていた。
トントン、と扉を叩く音が静寂を破った。部下の騎士が、部屋の外から告げる。
「報告いたします、兵団長。……捕虜の少女が、目を覚ましました」
「……そうか」
エルは静かに調査書を閉じ、机の上に置いてあった軍帽を取り上げた。
その瞳には、軍略家としての淡々とした光だけではない、どこか深い思索の光が宿っていた。
「……行く」
窓の外では、帝国の冷たい深夜の風が、音もなく吹き抜けていた。




