第13話 逃された姫
戦火が止んでから、数日が経っていた。 王都の喧騒から遥か遠く、緑豊かな郊外に佇む小さな教会。その埃っぽい一室の窓辺に、ナスルーラは身を寄せていた。
閉じた瞼の裏には、あの地獄のような落城の光景が未だに焼き付いている。
深夜、何が起きたのかも分からぬまま、親衛隊の者たちに抱き起こされた。 隠し通路を抜け、安全な森の入り口に着いたとき、騎士たちは死を覚悟した目で自分に一礼し、再び炎のなかへ戻っていった。そこから先は、見知らぬ集落の民たちが、手から手へ荷物を運ぶようにして自分をここまで連れてきてくれた。
悲鳴をあげることさえ忘れた心は酷く乾き、涙さえ出てこない。 王族たるもの、国と運命を共にする覚悟はとうにできていた。父王は、もはや生きてはいまい。
だが、そんな彼女の胸をいま最も激しく締め付けているのは、心から信頼し合い、数日前に自分を抱きしめて泣いてくれたあの親衛隊長——シアのことだった。
友であり、姉妹のようでもあった少女は、あの地獄のなかでどうなってしまったのか。それだけが、気が気でならなかった。
教会の重い木扉がギイと音を立てて開き、一人の男が姿を現した。
泥と煤にまみれた甲冑を纏ったその姿に、ナスルーラは息を呑む。あの日、命懸けで自分を城外へと導いてくれた王国騎士の一人、ネアルコだった。
「ナスルーラ王女……! ご無事で、何よりです……!」
ネアルコは床に膝を突き、安堵のあまり声を震わせた。だが、彼がもたらした報告は、ナスルーラをさらに深い惑いへと引きずり込むものだった。
「殿下、お耳に入れておかねばならぬことがございます。逃走の道中、あまりにも不可解なことが起きました」
「不可解なこと、とは?」
問いかける王女の前に、ネアルコはあの夜の奇妙な戦場の記憶を語り始めた。
「馬車で東の街道へ抜ける際、運悪く帝国の精鋭隊と鉢合わせしたのです。敵の隊長は、馬車の窓から殿下のお姿を確実に視認しておりました。……誰もが死を覚悟し、私が剣を抜いた、その時でした」
敵の隊長は追撃命令を下すどころか、冷淡にこう吐き捨てたのだという。
『待て。深追いするな。我らの任務は本隊の進路確保だ。落ち武者狩りに構うな』
敵は道をあけるようにして、そのまま素通りしていった。
「……あの時ほど、剣を握る手が不気味さに震えたことはありません」
「……帝国が、私を意図的に逃がした?」
侵略者であるはずの帝国が、なぜ王国の象徴である自分を五体満足で生かしておく必要があるのか。ナスルーラは混迷の渦に突き落とされた。
だが、思い悩む時間は与えられなかった。
日を追うごとに、どこで聞きつけたのか、生き残った王国の騎士たちが入れ替わり立ち替わり、この小さな教会へと集結し始めたからだ。
彼らがもたらす情報は、王都の「今」を浮き彫りにしていった。
街の建物や一般の民には大きな被害が出ていないこと。一方で、次期国王の座を狙っていた腐敗貴族たちだけが、ピンポイントで悉く処分されたこと。 そして何より、彼女の凍りついた心を跳ね上がらせたのは、最後の報告だった。
「シア・ロードンは……生きている可能性が極めて高いかと」
一人の騎士の言葉に、ナスルーラは窓の格子を強く掴んだ。
「本当ですか!? シアは、どこにいるのです!」
「防壁での激戦の後、彼女の遺体はありませんでした。そればかりか、帝国兵が白銀の甲冑の少女を、生かしたまま丁重に連行していく目撃情報が上がっています」
生きて、帝国の捕虜になっている。
その事実を知った瞬間、彼女の中に眠っていた王女としての覚悟が、初めて明確な意志を持って拍動した。
「ネアルコ。そして皆。お願いです、シアの情報を集めてください。彼女が今どこにいて、どんな扱いを受けているのか、帝国の動向を調べてほしいのです」
「はっ! 御意のままに!」
騎士たちが一斉に跪き、胸に拳を当てる。 誰一人、命令に迷う者はいなかった。その小さな教会で初めて、生き残った王国の騎士たちは再び一つになった。
騎士たちが部屋を去り、再び小さな教会に静寂が戻る。
窓の外では、いつの間にか夜が明けようとしていた。遠い東の地平線から、薄紫色の淡い光が静かに差し込み、王女の横顔を優しく照らし始める。
「シア……」
彼女は、自分の胸元にそっと手を当てた。
あの日、王宮の回廊でシアを抱きしめた時の、あの凍えるような少女の震えが、まだ手の平に残っている気がした。
ナスルーラは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
(私は、もう逃げるだけでは終わらない)
夜明けの冷たい光のなかで、王女はただ静かに、まだ見ぬ帝国の闇の向こうを見つめ続けていた。




