第10話 侵攻の鐘
王都の防壁を揺るがしたのは、地鳴りのような鉄の進軍音だった。 地平線を黒く塗り潰すドナテロ帝国軍の軍勢が門前に現れた時、王国の兵士たちの間には、戦う前から絶望の泥が広がっていた。
「恐怖に呑まれるな! 私が、みんなの盾になる!」
防壁の最前線、シア・ロードンの鋭い声が響き渡る。 白銀の甲冑に身を包んだ彼女の存在だけが、崩壊寸前の王国軍の士気を辛うじて繋ぎ止めていた。
開戦の轟音とともに、帝国軍の猛攻が始まった。 だが、その戦いは凄惨であると同時に、恐ろしいほど整然としていた。
「——右翼、防衛陣地が突破されました! 敵の先遣隊、まるで我が軍の配置を知っていたかのように、死角から回り込んでゆきます!」
伝令の悲鳴が飛び交う。エルの率いる帝国軍の進軍は、王国軍の防衛作戦を盤面ごとそっくりそのまま写し取っているかのようだった。
シアは奥歯を噛み締めた。
(……読まれている)
巨石が防壁を砕き、凄まじい衝撃とともに石組みが崩れ落ちた。土煙を上げて出来た破口から、帝国の精鋭兵が雪崩のように流れ込んでくる。
「ひっ……!」
押し寄せる鉄の波を前に、親衛隊の若い兵士が腰を抜かしかけていた。その頭上へ、敵の太刀が振り下ろされる。 ──その刃が届くより疾く、白銀の光が閃いた。
シアのプリンスローズが敵の胴を撃ち抜き、衝撃ごと吹き飛ばす。シアは若い兵士の襟ぐりを掴んで引き起こすと、鋭く叫んだ。
「立ちなさい! まだ終わっていない!」
「た、隊長……! 助かった……!」
シアが立ち塞がり、次々と敵を斬り伏せていく背中を見て、周囲の兵士たちの瞳に一瞬だけ熱が戻った。
「隊長がついているぞ!」
「押し返せ! 防壁を守るんだ!」
泥に塗れていた王国軍の士気が、シアというたった一振りの剣によって巻き返されていく。 少なくとも――シアの守るこの一角だけは、押し返していた。
次の瞬間、シアの身体は、守るためだけに研ぎ澄まされた一振りの剣となった。迷いが消えた。
飛び込んできた帝国兵の槍を最小限の動きで受け流し、その喉元を正確に切り裂く。三人、五人、十人。シアが地を蹴り、立ち回るたびに、周囲の敵兵が薙ぎ払われ、防壁の上に束の間の空白地帯が出来上がっていった。
目の前だけは守れていた。シアは、そう信じていた。
だが、その熱狂を冷ややかな静寂が包み込む。 帝国軍の陣形が割れ、一騎の馬が進み出てきた。 漆黒の軍帽を深く被った男——エル・シャーリー。
エルの傍らへ、伝令兵が馬を滑り込ませて短く報告する。
「兵団長! 右翼、制圧完了! 左翼も予定通り防衛線を突破しました!」
「続行」
エルは感情の失われた声で短く応えると、血飛沫の中で立ち尽くすシアへ静かに視線を向けた。
「やはり、貴公が最大の障壁か、シア・ロードン」
「……貴公がエル・シャーリーか……!」
シアが剣を構え直す。 だが、エルは自ら剣を抜こうとはしなかった。
「兵団長! あの騎士を討つ絶好の好機です!」
横に控える副官が功を焦って叫ぶ。エルは視線すら動かさず、静かに切り捨てた。
「不要だ。一人を倒しても城は落ちない」
エルはチェスの駒を動かすように、周囲の部隊へ淡々と指図を出した。
「全軍、あの少女とまともに切り結ぶな。手を出せばこちらが削られる。彼女は取り囲んで足止めするだけでいい。他の防衛線を各個撃破しろ」
「待てッ!」
シアが肉薄しようとする。しかし、帝国兵たちはシアを倒そうと刃を向けるのではなく、巨大な盾の壁で彼女の進路を塞ぎ、ただ時間を稼ぐために執拗にまとわりついてきた。
シアが眼前の盾兵を斬り払い、ふと視線を横へ向けた。
遠く左翼の防壁で、王国の獅子旗がゆっくりと斜めに傾き、煙の中へ崩れ落ちていくのが見えた。
「な……なんだこれは!?」
シアの横で戦っていたあの若い兵士が、悲鳴を上げた。 シアが目の前の敵をいくら倒そうとも、彼女の届かない左右の防壁が、石塵を上げて次々と崩壊していく。帝国兵の怒濤の濁流は、シアという巨岩をただ避けるようにして、王国軍の陣地を呑み込んでいった。
「隊長! ダメです、もう保ちません!」
さきほど「助かった」と息を吹き返したはずの兵士が、涙と血に汚れながら退却の伝令を叫んでいた。
遠くで、王国軍の全面退却を告げる重い鐘が鳴り響いた。 シアはまとわりつく盾兵たちを必死に斬り払いながら、息を呑む。
自分は、こんなにも敵を倒している。目の前の仲間を助けたはずだった。それなのに。 守るべき防壁が、民が、仲間たちが、自分の届かない場所で崩れていく。
(……どうして)
プリンスローズがまた一人の兵士を斬り伏せる。 だがその瞬間、シアの胸に浮かんだのは勝利ではなく、生まれて初めて味わう圧倒的な無力感だった。
戦場を見下ろす遠くの丘の上。 馬上に座すエルは、沈みかける夕陽に照らされた王都の城壁を静かに見つめていた。
「……第一段階、終了」
呟きを残し、エルは馬の首を返した。
傾きかけた夕陽が、戦場に立ち込める戦塵を赤黒く染め上げていく。
崩れかけた防壁の上に、シアはたった一人立ち尽くしていた。 どれほど強くても、この剣では届かないものがある。
手の中で、プリンスローズが静まり返っている。 血の匂いに満ちた風の中で、シアは初めて知る敗北の味に、ただ激しく震えていた。




