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コンピテンシー

 耕造は黒モフを地面に降ろすと、自身の左手にあった小さな瘡蓋(かさぶた)をぺりっと剥がした。じんわりと赤い血が滲む。

 その途端、黒モフが鼻をひくつかせる。それは、血のにおいに反応したように真希の目には見えた。

 それは伺うような視線で耕造を見上げた。くれるの? とでも言いたげに。

 視線を受けた彼は、血が滲んだ左手を黒モフの口に近づける。それはおそるおそるといった風に口を開けた。

(うわっ牙)

 可愛らしい見た目とは裏腹な鋭い犬歯が光る。

 その牙が耕造の手に食い込む前に、彼は黒モフの頭部を右手でぶっ叩いた。

「きゅ……っ!」

 その小さな動物は哀れっぽい鳴き声を上げて吹っ飛んだ。

「ちょっ、耕造⁉︎」

 咬みついてきた動物を庇う気はないが、これは駄目だ。目の前で虐待されている小動物を黙って見ているわけにはいかない。

「黙って見てろ」

 耕造は黒モフを叩いた左掌を真希に見せて、それから目を離さない。彼は再び左手をそれに近づけた。

 黒モフは小首をかしげて、今度は口を開けない。自分を叩いた人間に怯えることなく、問うような視線を向ける。

「……ははあ」

 新右衛門が感心したような声を漏らす。

「…………よし! よーし、いい子だ!」

 耕造は真希たちには見せない全開の笑顔で黒モフの頭を撫でた。そしていつの間にか持っていた小枝の先をそれの口に近づける。

「‼︎」

 黒モフは瞳を輝かせ、小さな両手でそれを受け取って、大きく口を開けた。

 リスだ。小枝に刺したリスの死体を、黒モフが美味しそうに食べた。頭から丸齧り。

「ははあ。森でこっそりそんなことをしてたわけだ。よく躾けたね」

 新右衛門はそんな場面を見ても平気そうだ。令和日本の都市部に住む真希は直視したくない。

「肉も喰うけど、動物の血が好物らしくて。ほら、啜ってるだろ」

「へええ」

 興味深そうに観察する新右衛門に対して、真希は視線を逸らしてしまう。可愛い動物が可愛い動物を捕食する姿は気持ちの良いものではない。自分も肉や魚を食べるくせに、とは思うが、慣れないのだから仕方がない。

「だからさ、いいだろ。連れてっても」

「だからって何よ。まさかそいつの餌を捕まえながら進むつもり? 一生ふたりに追いつけないじゃん!」

「……真希」

 反対する真希に、耕造が珍しい真剣な顔を向ける。説得するつもりか。

「なによ」

「おまえまだアンネ終わってないんだろ」

「あんね」

 なんだそれは。

「アレだよアレ。まだ血ぃ止まっ」

「ぜっっったい嫌っっ‼︎」



 とんでもない頼みごとをしてくる耕造を、しばらく真希は邪険にした。

 どうせ捨てるんだからいいだろ、なんて気軽に頼んでくるが、経血を得体の知れない動物に舐めさせるなんてとんでもない。

 生理的に嫌なのももちろんあるが、もっと欲しいと襲われそうで怖いのだ。野生の熊だって、人間に餌をもらったら、そのうち人間を襲うようになるというし。

「ケチ臭えな。何も齧らせてくれなんて言ってるわけでもねえのに」

「ケチとかいう問題じゃない。どこから出た血か分かってんの?」

「……おまきちゃん、君嫁入り前なんだから、もうちょっと慎みを」

「黙れチャラ男」

 おまえにだけは言われたくない、と睨むと、新右衛門が両手を挙げた。

「うわあ不機嫌」

「不機嫌にもなるわっ。そいつさっきからチラチラこっち見てくるんだからっ」

 血臭がするのだろうか。羞じらいなんかとうに感じなくなってしまった。こんな小動物に捕食されるなんて冗談じゃない。

 頑なな真希を説得することが出来ず、耕造は常時餌になる獲物を探してキョロキョロしている。首輪代わりらしい紐を首に巻かれた黒モフは、飼い犬よろしく彼の足下を歩いている。移動は四つ脚でするらしい。脚の短いそいつが遅れがちになると、耕造がしばらく肩に載せて歩く。

 咬もうとする、殴られる、を何度か繰り返した黒モフはようやく懲りたのか、耕造の首に掴まるだけで口を開けようとはしなくなった。

「きゅっきゅきゅっ」

 可愛い声が歌うように弾んでいる。どうやら運ばれるのが楽しいらしい。

「きゅっきゅきゅっきゅ耳元でうるせえなあ。キュキュって呼ぶぞ」

 耕造がでれでれしている。

「きゅっ」

「お。返事したな。今日からおまえはキュキュだ」

「可愛い名前付けてんじゃねえよ」

 吐き捨てる真希をチラッと見てから、耕造はキュキュの頭を撫でた。

「なんだよ。女ってこういうカワイイのが好きなんじゃねえのか」

「主語でかっ。可愛い見た目の人喰い動物とか最悪じゃん」

「キュキュはそんなことしねえよ」

「したよね? あたし、そいつに食べられかけたよね?」

「きゅっ?」

「スッとぼけやがってこの、このっ……可愛い顔するなばかっ」

 痛みが治まった今、可愛いには勝てない。

 こうして三人で進めるはずだった旅程に、一匹のマスコットが加わったのである。



「くっそー。可愛い。可愛いの腹立つ……。もう咬まないのね。いい子だねっ」

「きゅっ」

「ドヤ顔も可愛いぃ」

 可愛いに陥落してしまったことを認めてからの真希は、事あるごとにキュキュを撫でくり回している。キュキュも嫌がることなく、気持ち良さそうに目を細めてなすがままになる。その顔がまた可愛いのだ。

「やっぱり女の子は可愛いものが好きなんだねえ」

「新さん、主語が小さい」

 人間は可愛いものが好きなのである。

 黒い柔らかい毛。可愛い。白目の部分が少ない、顔の大部分を占める目。可愛い。短い手足。可愛い。可愛い鳴き声。可愛い。可愛い仕草が可愛い。

「咬まないならもういいよ。完全降伏……」

 キュキュを運ぶ役割を耕造と取り合いながら、真希はうっとりとその手触りを愉しむ。癒される。

「おまきちゃんはともかく、耕造は責任持ってそいつの餌捕まえなよ。いくら躾けても、動物なんだから腹が減ったらまた咬むよ」

「分かってる。戦争孤児舐めんなよ。小動物捕まえるのは得意だ」

 昔のひとはサバイバル力が強い。なんでもボタンひとつ押すだけで終わらせる生活をしてきた真希に出来ないことを、彼らは当たり前の顔をしてこなすのだ。

「それ、食べてたの?」

「他にどうすんだよ。ニワトリ捕まえたときは嬉しかったな」

「そういう話は胸に仕舞っとくものだよ」

 お坊ちゃん育ちの新右衛門は当たり前の批判は避けて、苦笑いする。

「? あ。そっか。ニワトリって、他所の家の」

 ワンテンポ遅れて気づいた真希の言葉を、耕造が遮る。

「道の真ん中歩いてた」

「脱走したんだねえ」

「野良鶏だったとか」

 喰うに困ってした昔の悪事だ。当時困ったひとはいたのだろうが、今耕造を責めても誰も救われない。見ず知らずの昔の人物を思って耕造を責める言葉は、真希は思いつかない。

「俺もそう思う。おい新の字、そんな顔すんなよ。もうやらねえよ。言っただろ。今は真っ当に生きてるって」

「おや。どんな顔に見えていたんだい。私は自分の昔の悪さを思い出していただけだよ」

 いい子扱いされたくない男の子の顔になった新右衛門が、高い位置から連れふたりを見下ろす。

「新さんの悪事って、女の子をひどい振り方したとか?」

「女孕ましてバックれたとか」

「えっ最低」

「今からでも遅くねえ。帰ったらすぐ土下座しに行け」

「ちゃんと責任取らなきゃダメだよ」

「……勝手に決めないでくれないかな」

「女じゃないならなんだよ」

 喰うに困ったことがないのは真希も新右衛門と同じだ。どんな育ちの人間でも、大人になるまで後ろめたいことのひとつもしていないなんてことはありえない。

「新さんの悪い話聞きたいな。この際だから暴露大会しようよ。梶原くんに黙っててくれるなら、あたしも喋るよ」

「おや。寿明に関係ある話?」

「聞いてからのお楽しみ。新さんお先にどうぞ」

コンピテンシー 好業績者の行動特性

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