第9話 幼馴染を狂わせてしまった
目の前にいるのは、俺の知っている緑子ではなかった。
これまで纏っていた天使のような神々しさもなければ、不思議ちゃんと呼ばれるだけのほわほわ感もない。
そこにあるのはちょっとした闇だ。
瞳の奥にあったはずの輝きがすっかり消え失せている。
「緑子……?」
心配になって声をかける。
正直今すぐにでも逃げ出したかったが、今の状況の緑子を放置できるほど、俺は残酷な人間じゃない。
緑子への恋はもう諦めたものの、幼馴染としての関係性や友情がなくなったわけではないからだ。
「紫音……紫音……」
「大丈夫?」
きっと大丈夫じゃないだろうが、こうやって声をかけてやることしかできない。
気の利いた台詞なんて、そう簡単に言えるもんじゃないからな。
「プリント届けにきた」
慎重にプリントを渡す。
緑子は虚ろな表情のままプリントが入ったファイルを受け取ると、その瞳をまっすぐ俺に向けてきた。
「紫音……私のこと、嫌いなの?」
「いや……そんなわけないだろ」
「私のこと、好きだったんだよね?」
どうしてそんなこと知ってるんだ?
もしかして、俺が封じ込めていた緑子への気持ちって、本人にも普通にバレていたんだろうか。それとも、誰かから直接聞いた?
だとしたら、誰が緑子に教えたのか。
「その反応……本当だったんだね」
「……」
「でも、もう嫌いになったの? 他に好きな人でもできた? それって誰? 私が知ってる人? 兎川先生? アナログゲーム部の先輩? まったく知らない人?」
いきなり口数が多くなった緑子。
こんな様子の幼馴染を見るのは初めてだ。
声はいつもより低く、いつもより小さい。
だが、至近距離にいる俺は聞き取ることができた。
「俺は別に、緑子のこと嫌いになったとかじゃなくて――」
「そっか。それなら新しい好きな人ができたんだね。それで、その女は誰? 私の知ってる人だよね?」
「いや、だから俺は――」
「私、邪魔だよね。邪魔なんだ。紫音にとって、幼馴染の私は邪魔なんだ……」
「……」
なんだこの豹変ぶり。
まず、完全に病んでしまっている。1週間も学校を休み、特に話す相手がいなかったことで軽い鬱状態になっているんだろう。
そうに違いない。
そのモヤモヤを今こうして俺に吐き出すことで発散しているのなら、俺は我慢して受け止めてやるべきなんじゃないのか。
「私おかしいよね。わかってる。こんな気持ちになるのは初めてだから……ふふっ」
うん、これは確実におかしい。
いろいろ発散した緑子は、最後に不気味な笑みを浮かべると、プリントの入ったファイルを地面に落とし、力強く踏みつけた。
「……」
ごめん、さすがの俺もドン引きだよ。
今の緑子は病んでいるどころか、完全に狂っている。
「紫音……紫音……私のこと、まだ好き?」
「……」
正直、今は怖いという感情で全身が埋め尽くされていて、思うように口が動かない。それに、この状態になってしまった緑子のことを好きかと問われると……なんとも言えない。
「それが答えなんだ……やっぱり嫌いになるよね、こんな女……ふふっ」
ヤバいんじゃないのかこの状況は。
「私だってこんな女と関わりたくないよ。だから紫音も気づいたんだよね。いいよ、それで。私だけを見てなんて言えないから……」
「俺は……」
「紫音は……こんな幼馴染のこと、愛してくれる?」
「――ッ」
ゾワッと。
全身を駆け巡る恐怖。
逃げろという信号を、俺の中で眠っていた生存本能が脳に送りつけてくる。
「俺、これから用事あるから帰るよ。それじゃ」
引きつった笑顔を作り、踵を返す。
ひとまず自分の頭の中を整理した方がいいし、今の緑子は危険すぎるので、何をしてくるかわからない。
緑子の親とか学校の先生とかに相談した方がいいんだろうか。
「……そうだよね。紫音は私のこと嫌いだもんね……」
またネガティブ思考の波が来たような気がするが、とりあえず無視して逃げ帰る。
俺の家まで走って30秒。
追いかけてくることはなさそうだったので、命は無事だ。
リビングのソファに倒れ込み、息を整える。
全力疾走したので、軽く息が上がっていた。
体力テスト以来の全力疾走だ。あの時より速く走れたような気がする。
「おにぃ、どうしましたか?」
隣のソファにごろんと丸まって寝ていた瑠璃が近づいてくる。
この状況でいつもと変わらない妹を見ているとなんだか安心するな。持つべきものは子猫のように可愛い妹だ。
「実はさっき緑子の家に行ったんだけど――」
ここで数分前の出来事を説明する。
プリントを届けにいくことになった経緯。緑子の変貌ぶり。
それを聞いた瑠璃は、小さな手で俺の背中を優しくさすり、そのままペタッとくっついてきた。
「おにぃは何も悪くありません。大丈夫です」
「……そうか」
妹の温もりを感じる。
「おにぃは人を狂わせてしまうんです。素晴らしい人ですから。悪いのは全部、おにぃに狂わされた人たちなんです」




