ターニングポイント
『高校生活で、一番印象に残っている場所』
机の上に置かれた、
一枚のアンケート。
教室のあちこちから、
声が上がっていた。
「え~~、どこだろ」
「一個だけ?」
「修学旅行先とかでもいいのかな?」
「それ学校じゃなくない?」
「でも高校生活で、でしょ?」
笑い声が起こる。
みんな、
楽しそうに悩んでいた。
三年間を振り返りながら。
友達と話しながら。
懐かしそうに、
思い出を掘り起こしながら。
だけど。
私は、
動けなかった。
ペンを持ったまま。
白紙のアンケートを、
ずっと見つめていた。
一番。
たった一つ。
そんなの。
「…………」
選べるわけがなかった。
「橘」
声に顔を上げる。
若林先生が、
私の机の横に立っていた。
「難しく考えなくてもいいぞ」
「……はい」
小さく返事をする。
でも。
難しい。
私にとって、
高校生活を思い出すということは。
みんなとは、
少しだけ意味が違う。
「私……」
アンケートを見る。
「たくさんありすぎて」
少し笑った。
「一つに決められないです」
若林先生は、
少しだけ目を細めた。
「そうか」
それだけ言って。
私の肩を、
軽く叩いた。
「良い高校生活だったんだな」
そして、
次の生徒のところへ歩いていった。
「…………」
私は、
何も言えなかった。
――良い高校生活。
その言葉だけが、
胸の中に残った。
良い高校生活。
「…………」
握っていたペンを見る。
違う。
高校生活なんて。
大嫌いだった。
何度も。
何度も。
何度も。
失った。
泣いた。
叫んだ。
どうして私だけ。
何度そう思ったか、
もう覚えていない。
同じ季節を繰り返して。
同じ景色を見て。
同じ人を好きになって。
そして。
何度も、
失った。
こんな時間。
終わってしまえばいいと思った。
こんな世界。
なくなってしまえばいいと思った。
高校生活なんて。
私にとっては、
ずっと――
絶望だった。
「…………」
なのに。
今は。
どうしてだろう。
終わってほしくない。
思い返すたびに、
苦しかったはずの記憶まで愛おしい。
出会った日。
林間学校。
夏祭り。
体育祭。
修学旅行。
くだらない会話。
どうでもいいことで笑った時間。
苦しかった。
辛かった。
忘れたかった。
それなのに。
今となっては。
そんな記憶さえ、眩しい。
どうして。
答えは、
分かっている。
全部に。
守愛がいたから。
「…………」
私は、
ゆっくり顔を上げた。
黒板。
消し切れていない、
白いチョークの跡。
窓から差し込む光。
廊下から聞こえる声。
友達の笑い声。
何度も見てきた、
当たり前の教室。
でも。
その瞬間。
一つの景色が、
頭に浮かんだ。
「…………あ」
そうだ。
あそこだ。
楽しかったからじゃない。
一番笑った場所でもない。
一番幸せだった場所でもない。
むしろ。
あの日の私は、
泣いていた。
逃げようとしていた。
全部、
諦めようとしていた。
それでも。
あの場所で、あの人が、
私の前に現れた。
そして。
私の人生を変えた。
目を背けたかった未来に。
初めて。
ほんの少しだけ、
光が差した。
絶望しかなかった高校生活に。
初めて、
“この先も生きてみたい”と思えた。
「……そっか」
気づけば。
私は、
笑っていた。
一番楽しかった場所じゃない。
一番綺麗な場所でもない。
でも。
私にとって、
一番大切な場所。
だって。
あそこから。
私の未来は、
始まったから。
私は、
アンケートにペンを走らせた。
迷いは、
もうなかった。
一文字。
また一文字。
私の三年間を変えた場所を、
そこに書いた。
――
「……涼香ちゃん、何を考えているんだ」
誰もいない、二年二組。
ランは一人椅子に座っていた。
タブレットには、
二つの言葉。
『二』
『夢』
何度見ても、
分からない。
「何を考えてんだよ……」
何を伝えたいのか。
何を見ているのか。
そして。
俺に、
何を分かってほしい。
「…………」
好きな人のことなのに。
分からない。
それが、
こんなに悔しいとは思わなかった。
「また俺は……」
俯く。
「駄目なのか……」
高校生活。
ずっと、
柊を追いかけてきた。
あいつに勝ちたい。
あいつみたいになりたい。
あいつについて行けば、
間違えない。
そう思っていた。
でも。
自分の未来すら、
決められなかった。
サッカーが終わって。
居場所がなくなって。
何も残っていないような気がした。
そんな自分に。
手を伸ばしてくれた人がいた。
――私、いるじゃん。
あの雨の日。
傘の下。
涼香は、
当たり前みたいにそう言った。
――その空っぽ。
――ちょっとくらいなら、私が埋めてあげるよ。
「…………」
ランは、
目を閉じた。
あの時。
どれだけ救われた。
どれだけ嬉しかった。
なのに。
今。
その人のことを、
自分は分かっていない。
「…………クソ」
両手で、
顔を擦る。
そして。
パンッ。
自分の頬を叩いた。
「何してんだよ」
立ち上がる。
「まだ終わってねぇだろ」
分からないなら。
考えればいい。
知らないなら。
思い出せばいい。
今まで見てこなかったのなら。
今からでも、
ちゃんと見ればいい。
「諦めんな」
自分に言い聞かせる。
夏木歩を、
認めてくれた人がいる。
何もない自分の隣に、
いてくれた人がいる。
なら、
今度は。
俺が、
あの子のところへ行く。
「……行くか」
タブレットを握る。
二年二組の扉へ向かう。
ここに涼香はいなかった。
なら、
次だ。
扉を開ける。
今来た方向ではなく。
反対側の廊下へ、
足を向ける。
その時だった。
「…………?」
ランの足が止まる。
ほんの僅かに、
人の気配がした。
ランは、
ゆっくりとそちらへ向かう。
一歩。
また一歩。
そして。
「…………は?」
いたのだ。
そこに。




