第94話 ご注文は?
朝、地下の大扉はもう開いていた。
主人公は靴紐を結び直し、寝床の入口から声をかけた。
「行ってくる」
近くで朝食を片付けていた男が顔を上げる。
「どこ」
「姉ちゃんち」
「戻る?」
主人公は立ち上がって、ポケットの端末を確かめた。昨日は忘れて一度戻った。今日はある。
「夕方くらい」
「じゃあ戻るんじゃん」
「そうとも言う」
男が呆れた顔をする。その横を抜け、大扉へ向かった。
地上から朝の光が斜めに入っている。昨日までなら、開いているだけで何人かが足を止めていた。今日は荷車が一台通り、そのあとを仕事へ向かうらしい二人が歩いていく。
主人公もその後ろから外へ出た。
空がある。
見上げるたびに広いと思う。それでも、もう驚いて立ち止まるほどではない。
「でか」
口には出た。
姉の家までは、一人で歩いた。
呼び鈴を押すと、少し間を置いて姉の声が返ってくる。
「はい」
「俺」
「知ってる」
「何で」
「画面に映ってるから」
「あ」
玄関が開いた。
「おはよう」
「おはよう。入れば」
奥から何かを焼く匂いがしていた。子どもは居間の机に向かい、その父親が台所に立っている。
「朝飯?」
「そう。あんたは?」
「食った」
「何を」
「硬いやつ」
姉の眉が寄る。
「それ朝飯って言う?」
「地下では言う」
台所から声が飛んだ。
「まだあるけど、食べる?」
主人公は答えかけて、焼けた匂いをもう一度吸った。
「……少し」
「食うんじゃん」
「少しって言っただろ」
皿に載って出てきたのは、端が少し焦げたパンと肉、それに野菜だった。特別なものには見えない。
一口食べる。
「うまい」
台所の男が笑った。
「よかった」
それだけで会話は終わった。
主人公も、続きを探さなかった。
食べ終えると、子どもの横へ行った。机には紙や細い棒、色のついた小さな部品が散らばっている。何かを組み立てているようだが、何なのかは分からない。
「何それ」
「まだ」
「何になるの」
「まだ決めてない」
「決めないで作るの?」
「うん」
主人公は机の上を覗き込んだ。
少し曲がっている棒がある。別の部品をつけた方が安定しそうにも見えた。
手を出しかけて、止める。
「そっか」
子どもは主人公を見ずに作業を続けた。
主人公も触らなかった。
しばらく眺めてから立ち上がる。
「出る」
「どこ」
姉が洗い物をしながら聞いた。
「店」
「何の」
「バーガー」
「一人で?」
「うん」
「帰りは地下?」
「そのつもり」
姉は蛇口を止め、振り返った。
「夕飯は?」
「地下で食う」
「六時にこっち来な」
「何で決めるの」
「飯だから」
主人公は一瞬、養父の顔を思い出した。
「親父みたい」
「誰が」
「何でもない。六時ね」
「遅れるなら連絡」
「はいはい」
家を出る。
街には、前に通った道と、まだ知らない道が混ざっていた。工事中の建物の隣には古い壁が残り、角の店は看板を交換している。
主人公は何度か道を確かめながら歩いた。
やがて見覚えのある看板が現れる。
PANDEMONIUM BURGER。
扉を開けると、店内から声が飛んできた。
「いらっしゃいませ」
主人公は店員を見た。
一秒くらい。
それから、カウンター上のメニューへ目を移した。
「店内で」
「お好きな席へどうぞ。ご注文がお決まりになったらお呼びください」
窓際の席へ座り、メニューを開く。
写真にはパンと肉と野菜とソースが重なっている。前に食べたものもあるが、知らないものも増えていた。
「これ何」
近くを通った店員へ写真を指す。
「期間限定です」
「辛い?」
「少し辛めです」
「じゃあこれ」
「セットにされますか?」
「する。飲み物は炭酸」
「サイズは?」
「普通」
店員が一瞬だけ止まる。
「Mですね」
主人公は笑った。
「それ」
注文が通る。
待っている間、店内を見回した。
隣の席には腕の形が違う客がいる。向こうには、見た目だけなら自分とほとんど変わらない客。その奥は、よく分からない。
以前なら、たぶん考えていた。
何なのか。
どちらなのか。
今はデザートの値段の方が気になった。
「高」
メニューを閉じる。
そのとき、頭上で小さく音がした。
かたん、と何かが鳴り、天井の照明が一つ消える。
主人公は反射的に腰を浮かせた。
「そこ」
店員が振り向く。
「はい?」
「照明、消えた」
「あ、本当だ」
奥にいた別の店員も見上げる。
「また? 昨日替えたよね」
「接触かな」
主人公は椅子を半分引いた。
「工具ある? 俺、見れる」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」
「すぐ直せると思う」
「営業中なので、予備を点けます。閉店後に確認しますね」
店員が壁際の操作部へ触れる。
ぱち、と少し離れた照明が点いた。
消えた一灯は、そのままだった。
それでも店内は明るい。
客は食べている。誰も困っていない。
主人公は立ちかけた姿勢のまま、天井を見た。
「……そっか」
椅子へ戻る。
少しして、トレーが運ばれてきた。
「お待たせしました。ご注文のセットです」
バーガーとポテト、それに炭酸。
「ありがとう」
包みを開くと、熱い肉とソースの匂いが立った。
一口かじる。
「辛っ」
慌てて炭酸を飲む。舌の上がさらに刺激され、主人公は顔をしかめた。
「これ、少し?」
店員が笑う。
「当店基準です」
「基準おかしいだろ」
「よく言われます」
主人公はバーガーを見た。
もう一口食べる。
やっぱり辛い。
でも、うまかった。
入口の扉が開く。
「いらっしゃいませ」
新しい客が入ってきた。
主人公は振り返らなかった。
頭上では照明が一つだけ消えたままになっている。店員は次の客へ向かい、いつもの調子で声をかけた。
「ご注文は?」
主人公はポテトを一本取り、口へ入れた。
六時までには、まだ時間があった。




