第93話 開ける
大扉は閉まっていた。
主人公は広間へ入るなり、その灰色の面を見上げた。つい数日前まで、閉じていることに疑問を持たなかった扉だ。今は向こう側に道路があり、空があり、姉の家もあると知っている。
「開けないの?」
壁際で椅子を運んでいた訓練担当の男が答えた。
「まだ決めてない」
「誰が決めるの」
男は抱えていた椅子を床へ置き、広間を見回した。
「みんな」
主人公も振り返る。
確かに、みんなと言うしかなかった。
椅子は足りず、立っている人も、壁へ寄りかかっている人もいる。治療を受けたばかりなのか腕を吊っている者もいれば、子どもを膝へ乗せたまま参加している者もいた。
「会議?」
「嫌か」
「長そう」
「長いぞ」
「嫌」
「じゃあ帰れ」
主人公は空いていた椅子へ座った。
「帰らない」
「なら文句言うな」
会議は、本当に長かった。
大扉を開けるべきだと言う者がいる。閉めておくべきだと言う者もいる。昼間だけならいい、いや夜間にも医療搬送は必要になる、外から誰が入ってくるか分からない、救援物資も同じ扉から入ってくる。
意見は二つには割れなかった。
「薬は必要だろ」
「だからって誰でも入れていいのか」
「誰でも入れるなんて言ってない」
「外に仕事がある奴はどうする」
「ここで働く奴もいる」
「子どもの学校は?」
「地下で続ければいい」
「地上へ行きたいって言ってる子もいるぞ」
「だったら本人にも聞け」
主人公は最初、発言する人の顔を追っていた。十分ほどで諦めた。二十分ほどすると腹が鳴った。
隣の老人が笑う。
「腹で採決するなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が開けろって言ってる」
「飯まだ?」
「会議が終わったらだ」
「じゃあ早く決めよう」
「やっぱり腹で決めてるじゃねえか」
周囲から小さな笑いが起きた。
けれど、そのあとも話は続いた。
主人公は急かさなかった。
少し離れた壁に、紙が何枚も貼られていたからだ。
今回の騒動で死んだ人。以前、地上へ出たあと戻らなかった人。移行期の混乱で行方が分からなくなった人。医療に携わり、戻らなかった人。
前なら知らない名前ばかりだった。
今は違う。
見覚えのある名前があった。声を知っている人もいた。
主人公は席を立ち、壁の前まで歩いた。名前を指でなぞることはしなかった。ただ読んだ。
「これ、どうするの」
近くにいた老人が答える。
「残す」
「扉を開けても?」
「扉と何の関係がある」
主人公は紙と大扉を見比べた。
「……ないか」
「なら残す」
「うん」
席へ戻る。
扉を開けることと、ここで起きたことを忘れることは同じではない。
会議はさらに続いた。
最終的に決まったのは、何でも自由にすることではなかった。
まず日中に開ける。救援、通院、仕事、面会、物資搬入の往来を認める。出入りは記録する。夜間は医療など必要な場合に対応する。
外へ出たくない者は出なくていい。
地上へ移りたい者は、その手続きを始められる。
地下で暮らし続ける者もいる。
「学校は?」
主人公が聞くと、訓練担当の男が資料を閉じた。
「別で決める」
「また会議?」
「また会議」
「長い」
「一回で全部決める方が怖いだろ」
主人公は少し考えた。
「それは、そうかも」
全員が大扉の前へ集まったわけではなかった。
その場に残った人だけが、開扉を見届けることになった。帰った人もいるし、見たくないと言った人もいる。
訓練担当の男が操作盤へ手を置く。
「開けるぞ」
「待って」
主人公が言った。
何人かがこちらを見る。
「何だ」
「いや……」
主人公は扉を見上げた。
ここから逃げるために通ったことがある。
姉が自分を探しに入ってきたこともある。
閉じ込めるための扉だと思っていた時期もあった。
でも今は、誰か一人が主人公を外へ出すために開けるのではない。
「開けて」
訓練担当の男が眉を上げる。
「最初からそうする」
「うん。だから、開けて」
操作盤が低く唸った。
金属の奥で巨大な機構が噛み合い、床へ重い振動が伝わる。閉じていた面の中央に細い線が生まれ、それがゆっくり広がっていった。
最初に入ってきたのは光だった。
次に、地上の空気。
広間の温度と匂いが少しだけ変わる。
扉が十分に開いても、拍手は起きなかった。
泣いている人が一人いた。腕を組んだまま不満そうな人もいる。眩しそうに目を細める人、何も言わず外を見ている人もいた。
「まぶし」
誰かが言った。
「閉める?」
「早いだろ」
今度は少し大きな笑いが起きた。
やがて地上側から救援車が一台近づいてきた。大扉の前で止まり、制服を着た人たちが荷台を開ける。
「医療物資です。受け入れ場所は?」
「こっち」
地下の住民が先に歩き、案内する。
主人公も積まれた箱へ手を伸ばした。
一箱持ち上げたところで、背後から声がする。
「また持ってる」
姉だった。
「一個だけ」
「あんたじゃなくても運べるよ」
「知ってる。一個だけ運ぶ」
姉は主人公と箱を見比べた。
「終わったら?」
「置く」
「ならいい」
主人公は箱を運び、指定された場所へ下ろした。
本当に、そこで手を離した。
次の箱には手を出さなかった。
別の誰かが持っていく。
数日が過ぎると、大扉が開く光景は少しずつ珍しくなくなった。
朝、仕事へ出ていく男がいる。
「行ってくる」
夕方には同じ男が戻ってきて、「ただいま」と言う。
荷物をまとめて地上へ出る女もいた。
「戻る?」
「分かんない」
「そっか」
それだけで送り出された。
四本腕の老人は出なかった。
「行かないの?」
「ここがいい」
「地上、見なくていい?」
「見たことある。肩凝りが治る場所でもない」
「まだ言ってる」
「まだ凝ってるからな」
子どもたちは開いた扉の向こうを覗き込みながら、学校がいつ決まるのかと大人へ聞いていた。
「また会議だって」
「また?」
露骨に嫌な顔をする。
主人公は笑った。
壁には名前が残っていた。
紙を外そうと言う人はいなかった。
ある朝、主人公は開いている大扉を通って地上へ出た。
誰にも行き先を聞かれない。
十歩ほど進んだところで立ち止まり、ポケットを探った。
「……ない」
引き返す。
入口にいた男が呆れた顔をした。
「どうした」
「端末忘れた」
「またか」
「うるさい」
寝床まで戻って端末を取り、もう一度大扉を通る。
今度は誰も数えなかった。
出る人がいる。
戻る人がいる。
残る人がいる。
通う人がいる。
大扉は、そのたびに開いた。




