第91話 座ってろ
警報が止まっても、避難所の誰もすぐには立ち上がらなかった。
天井のスピーカーから、解除確認中であることを告げる放送が流れている。さっきまで絶えず鳴っていた音が消えたせいで、毛布の擦れる音や紙コップを置く音まで妙にはっきり聞こえた。
「……終わった?」
主人公が呟くと、壁際に座っていた姉が目を閉じたまま答えた。
「確認中だって」
「聞こえた」
「じゃあ聞くなよ」
「姉ちゃんが言う方が分かる気がした」
姉は片目だけ開けた。
「何それ」
「知らない」
言ってから、主人公は避難所を見回した。
床には使い終わった毛布、空の水容器、食事の包装が残っている。移送を手伝っていた人たちは壁や柱へ背を預け、誰かはそのまま眠っていた。係員も忙しそうで、奥では備品の数を確認している。
主人公は足元の空容器を拾った。
もう一つ、その隣も拾う。三つ目を重ねたところで、姉の声が飛んできた。
「何してんの」
「片付け。これ邪魔だし」
「係の人が来るよ」
主人公は容器を抱えたまま、備品を運んでいる職員を見た。
「その人も大変だろ。俺がやれば早い」
姉が今度は両目を開けた。
「あんたじゃなくてもできる」
「できるけど」
「だったら座ってろ」
主人公は返事をせず、ゴミ袋を探した。壁際に半透明の袋が見える。そこへ向かおうとしたところで、姉が身体を起こした。
「座ってろって」
「何で。片付けくらいできる」
「できるかどうかの話してない」
主人公の足が止まる。
手の中の容器が、かすかに鳴っていた。
震えているのは容器ではなく、自分の指だった。
「……何かしてないと、ちょっと怖い」
言葉にした途端、握っていた一つが滑った。
からん、と軽い音を立てて床を転がる。
姉が先に拾った。
「私も怖いよ」
「姉ちゃん座ってるじゃん」
「だから座れって言ってんの」
「意味分かんない」
「怖いからって、全部あんたがやる必要ないって意味」
姉は拾った容器を主人公へ返さず、近くを通った係員の回収袋へ入れた。係員は「ありがとうございます」と言って、そのまま別の列へ向かう。
主人公はその背中を見た。
自分がやらなくても、片付いた。
それが妙に落ち着かなかった。
「ほら」
姉が自分の隣の床を叩く。
「座ってろ」
「……うん」
主人公はようやく容器を手放し、壁際へ腰を下ろした。
膝を曲げた瞬間、足が重かったことに気づいた。背中を壁へつける。地下の壁ほど冷たくも硬くもないのに、身体が一度沈むと立ち上がる理由を見つけられなくなった。
「五分だけ寝る」
姉が言う。
「ここで?」
「ここだから。動かなくていいでしょ」
「子どもは?」
「向こうで相手といる。連絡も来てる」
主人公は端末を確認しようとして、やめた。
任せると決めたのは自分だった。
姉が目を閉じる。
主人公は起きたまま、何もしなかった。
最初の一分は長かった。
誰かが空の紙コップを拾う。反射的に腰が浮きかけたが、その人はすぐ近くの回収箱へ入れた。
別の場所では毛布を畳む音がする。手伝えると思った。けれど主人公は膝に両手を置いたままにした。
何もしなくても、避難所は少しずつ片付いていく。
その事実を見ているうちに、指の震えがゆっくり小さくなった。
やがて食事が配られた。
紙容器のスープから湯気が上がっている。主人公は受け取るとすぐ口をつけ、舌を引っ込めた。
「熱っ」
姉が目を開ける。
「ゆっくり食べな」
「子どもみたいに言うなよ」
「弟だから」
「二十過ぎてる」
「それでも弟」
主人公はパンをちぎってスープへ浸した。さっきまで何かをしなければと思っていた身体が、今度は食べ物を欲しがっている。
隣で姉もスープを飲む。
「五分寝た?」
「たぶん三分」
「短い」
「あんたが熱いって騒ぐから」
「俺のせい?」
「半分」
「残り半分は」
「知らない」
主人公は少し笑い、パンをもう一口食べた。
避難所の入口では、警察官が同僚と何かを確認していた。危機の最中に何度も見かけた男だ。端末を返却すると、上着を肩へかける。
主人公は思わず声をかけた。
「どこ行くの」
警察官が振り向く。
「帰る」
「家?」
「家。勤務終わったからな」
それだけ言って、本当に出口へ歩いていく。
主人公はその背中を目で追った。
警察官にも帰る家がある。当たり前のことなのに、制服を着たまま事件の中へ消えていく人だと思っていた。
「何見てんの」
「帰るんだって」
「そりゃ帰るでしょ」
「警察でも?」
「警察だから家ないと思ってたの?」
「思ってないけど」
姉が笑った。
「思ってた顔してる」
主人公はパンで口を塞いだ。
少し離れた場所で、係員が空になった食事容器を集め始める。
また手が動きかけた。
主人公は自分の指を見て、それからスープの容器を持ち直した。
係員は隣の列を回り、別の人も自分の容器を回収袋へ入れている。主人公が立たなくても、仕事は進んでいた。
「偉いじゃん」
姉が言った。
「何が」
「座ってる」
「座るだけで褒めるなよ」
「さっきできなかったじゃん」
言い返そうとして、主人公はやめた。
代わりにスープを飲む。今度は熱さを確かめてから口へ運んだ。
警報のない天井の下で、誰かが毛布を畳み、誰かが帰り支度をし、誰かが眠っている。
主人公はそのどれも手伝わなかった。
パンをちぎり、残ったスープへ浸す。
何もしない時間も、自分の時間だった。




