第9話 出口が違う
第二入口から地下へ降りて十分もしないうちに、先頭の男が急に腕を広げた。
彼は薬箱の重さに押され、危うくその背中へぶつかる。
「何?」
「閉鎖だ」
通路を塞ぐ鉄扉の表示が赤く光っていた。
《閉鎖》
同行の女が認証カードを当てる。短い電子音のあと、《通行不可》へ表示が変わった。
「さっき入口は開いたじゃん」
「入口と連絡路は別管理」
「壊れてるなら直せるかも」
工具袋へ手を伸ばすと、養父がその手首を押さえた。
「壊れてるとは限らん」
「開かないだろ」
「閉じてるんだ。理由が分からないうちは触るな」
彼は赤い表示を睨んだ。第8話で直した認証盤と見た目は似ている。あれは接点が死んでいた。これは表示も認証も生きていて、そのうえで拒んでいる。
「壊れてないものを直そうとするな」
養父に言われ、工具袋から手を離した。
地図を開いた男が、一本南の連絡路を指す。
「こっちを回る。三番線へは少し遠くなるが、薬ならまだ問題ない」
「また予定変更?」
「予定通りに帰りたいなら、扉に頼め」
彼は鉄扉を振り返ったが、もちろん返事はなかった。
次の経路は、地図の上ではきれいにつながっていた。
現実には途中から水だった。
照明の届かない先で、通路いっぱいに黒い水面が広がっている。天井から落ちた雫が輪を作り、その輪だけが奥へ奥へと続いていた。
「……これ、どこまで?」
男が小石を投げる。数メートル先で沈んだが、底の深さは分からない。
「少なくとも曲がり角までは水だな」
「地図には道って書いてある」
「道はある」
「ないだろ。水じゃん」
「水の下にある」
「それ使えないなら同じだろ」
男は地図を畳まず、水面と見比べた。
「六年前は通れた。だから線は嘘じゃない。ただ、今を保証してない」
「昨日は?」
「知らん」
「いつからこうなったの」
「それも知らん。知りたいなら調べる仕事が一個増える」
彼は口を閉じた。
地図を捨てようとは思わなかった。役に立たないのではなく、これだけでは足りないらしい。
三本目の候補は古い非常階段だった。
上へ向かうにつれ、湿った地下の匂いに土の匂いが混じる。扉の縁から細い光が漏れていた。
「ここなら外へ出られる?」
「開けばな」
養父が押す。扉は数センチ動いたところで止まった。
彼も肩を当てる。
「せーの」
二人で押すと、錆びた蝶番が鳴り、隙間が拳一つ分まで広がった。
その先にあったのは空ではなく、新しいコンクリートだった。
「……壁?」
彼は隙間へ指を入れた。冷たい。向こう側から塞がれている。
「出口だろ、ここ」
「こっちから見ればな」
養父が扉を戻す。
「向こうの工事業者から見れば、古い地下構造の穴だったんだろ」
第6話で見た新しい基礎が頭に浮かぶ。自分たちの地図には道があり、地上の地図には存在すらしていない道。
それが今度は、目の前で完全に壁になっていた。
「じゃあ、帰れない?」
声が思ったより速く出た。
薬箱の肩紐が急に重く感じる。
養父は彼ではなく地図を見た。
「帰る」
「どうやって。閉鎖、水、壁だぞ」
「来た道が使えないだけだ」
男が古い地図を折り直す。
「地上へ戻る。上から西へ回るぞ」
「また地上?」
「地下で繋がらないなら、上を使う」
朝まで、地上へ出ること自体が目的だった。
今は地上へ戻ることが、地下へ帰るための迂回になっている。
その妙な感じを考える間もなく、彼らは別の階段を上った。
出た先は古い倉庫だった。錆びたシャッターの脇から外へ出ると、夕方の光が目に刺さる。
朝に見た街とは違い、低い住宅が並んでいた。洗濯物が揺れ、玄関脇には植木鉢や子供用の自転車が置かれている。
「ここ、どこ?」
「西側」
「三番線は?」
養父が足元を指す。
「だいたい下」
「だいたいって何だよ」
「地上から地下の部屋番号まで見えると思うか」
歩き出したところへ、公園からボールが転がってきた。
彼の靴に当たって止まる。
「すみませーん!」
小学生くらいの子供が走ってきた。
彼はボールを拾う。普通の手、普通の顔。けれど、もう首筋や腕を確認するために視線を這わせる気にはならなかった。
軽く投げ返す。
「ありがとう!」
子供は受け取ると、すぐ仲間のところへ戻っていった。
「今の、旧人類?」
口にしてから、自分でも以前ほど答えを欲しがっていないことに気づく。
「知らん」
養父が答えた。
「そっか」
それで歩き出す。
数歩遅れて、養父がこちらを見る。
「何?」
「いや」
「今見ただろ」
「前見て歩け」
「それ俺がずっと言われてたやつ」
女の端末が震えたのは、その直後だった。
今度は全員が足を止めた。
「管理局から。研究棟の旧系統照会で施設確認が入った。関連する旧アクセス路を一時閉鎖だって」
彼はさっきの赤い鉄扉を思い出した。
「……俺のせい?」
「一部はね」
「一部?」
「漏水はお前じゃない。非常口を塞いだ再開発もお前じゃない。工事柵もたぶん違う」
女は端末をしまう。
「でも最初の閉鎖は、あんたが索引を開かなければ起きなかった可能性が高い」
全部自分のせいではない。
だからといって、自分のせいではないことにもならない。
「ごめん」
誰もすぐには返事をしなかった。
養父が歩きながら言う。
「謝るなら帰ってからにしろ。今は薬を帰す」
彼も歩き出した。
男が鞄からもう一枚の地図を出す。今度は地上の道路図だった。
「地下は古い方、地上はこっち。西側入口の候補を探す」
二枚を重ねても線はほとんど一致しない。道路の下を地下通路が斜めに横切り、建物の真下で途切れ、別の場所でまた交差する。
「これ、同じ街の地図?」
「同じ場所を別の都合で描いてる」
「どっちが正しい?」
「今いる場所では両方」
彼は二枚を見比べた。
「じゃあ、ここ」
西へ伸びる道路と、地下の旧連絡路が近づく場所を指す。
「入口あるかも」
「候補だな」
「開いてる?」
「行って見る」
「またそれか」
男が笑う。
「嫌いか?」
以前なら即答していた。
「……前よりは嫌いじゃない」
「分からないことが?」
「好きとは言ってない」
西へ進むには駅前を抜ける必要があった。
夕方の人波は朝より密度が高い。階段から人が吐き出され、改札の向こうで電子音が重なっている。
ちょうど電車がホームへ滑り込んだ。
彼の足が少し遅くなる。
「乗らないぞ」
養父が先に言った。
「何も言ってない」
「顔に書いてある」
「顔で決めるな」
「薬を持ったまま観光する気なら決める」
背中の箱を意識する。
「……今日は帰る」
電車の扉が開き、人が降り、別の人が乗る。行き先表示を読めば、知らない地名がいくつも流れていた。
乗ればどこまで行けるのか。
聞かなかった。
今日は帰る。
駅前を抜けたところで、女が腹を押さえた。
「何か食べる。歩きながらでいい」
「急いでるんじゃないの?」
「空腹で判断鈍らせる方が面倒」
小さな店で、パンに焼いた肉を挟んだものを買った。彼も同じものを選ぶ。赤いソースが端から覗いていた。
「辛い?」
「少し」
一口かじった瞬間、舌が焼けた。
「辛っ!」
「だから少し辛いって」
「これが少し!?」
隣で同じものを食べていた男が吹き出した。頬から首にかけて皮膚が半透明で、その下に細い血管が見えている。
「それ、ここの中では結構辛い方ですよ」
「先に言って」
「店員じゃないんで」
「何で知ってるの」
「昨日も食べたから。好きなんです」
男は笑って先へ行った。
彼は咳き込みながら養父へ手を伸ばす。
「水」
「自分のは?」
「薬箱を下ろしたくない」
養父の水筒を受け取り、何口も飲む。
「地上の食べ物、危険だな」
「お前が選んだ」
「写真じゃ辛さ分からないだろ」
「一個覚えたな」
手元にはまだ半分残っている。
少し迷って、もう一口かじった。
「食うのかよ」
「捨てるほどじゃない」
養父が笑った。
西側入口は、地上から見れば建物の裏にあるただの設備扉だった。
古い地下地図、新しい道路図、壁に刻まれた管理番号。三つを照合して、ようやく候補が一つに絞れる。
「これだと思う」
「思う?」
「最後は開けてみるしかない」
女がカードを当てる。
一秒。
《許可》
扉が内側へ開いた。
冷えた空気が流れてくる。
彼は大きく息を吐いた。
「帰れる」
「まだ地下へ入っただけだ」
「分かってる。今度は」
階段を降りる。
風が消え、音が壁から返ってくる。天井が近づき、通路の幅も狭くなる。
身体の奥から力が抜けた。
暗い。狭い。先まで見えない。
なのに落ち着く。
しばらく歩くと、見覚えのある太い配管が頭上を横切った。
「あ。ここ知ってる」
「なら先へ行け」
彼は前へ出た。
右へ曲がり、短い階段を下りる。低い天井をくぐって、二本目の通路を左へ。
やがて三番線の照明が見えた。
人の声がする。煮込みの匂いがする。
帰ってきた。
診療所へ着くと、背中から薬箱を下ろした。肩紐が食い込んでいた場所に、鈍い痛みが残る。
「全部?」
「全部」
養父が答え、指定記録も渡す。
彼は空いた自分の鞄を確認した。
工具、水筒、空になった昼の袋。それから、上着の内側に姉の名前を書いた紙。
共生系資料はない。
「あ」
「何だ」
「ネジ」
第6話で友人に頼まれた、地上のネジ。
「忘れた」
「怒られるな」
「絶対言われる」
少し笑ったあと、今日通った場所が順番に浮かんだ。
閉鎖された鉄扉。水没した連絡路。壁になった非常口。古い倉庫。住宅地。駅前。西側入口。
来た道は、一つも帰り道にならなかった。
「出口って、一個じゃないんだな」
養父が薬箱の固定具を外しながら答える。
「当たり前だろ」
「帰り方も?」
その手が少しだけ止まった。
「何が言いたい」
「まだ分かんない」
来た道とは違う。
予定とも違った。
自分の失敗で閉じた道まであった。
それでも、薬はここにある。
彼は肩に残った赤い跡を指で押した。
帰るというのは、来た道を戻ることではないらしい。




