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第8話 持ち帰るもの


 研究棟を出る直前、老人が薄い紙束を彼の薬箱へ載せた。


「これは?」


「さっき気にしてただろ。共生系の入門資料だ」


 表紙には《共生系基礎資料》とある。紙束は指二本で持てる程度だった。


「もらっていいの?」


「古い版だ。捨てる予定だった」


「じゃあ持って帰る」


 薬箱の固定帯へ差し込もうとすると、横から養父が抜き取った。


「置け」


「何で」


「指定外だ」


「軽いだろ」


「重さの話じゃない」


「俺が持つ」


「持てるかどうかで決めるな」


 またそれだった。


 彼は紙束を取り返す。


「地上のこと知らないから、見たもの全部変に見えるんだろ。これ読めば少し分かる」


「必要だと決まったら次に取りに来い」


「次があるか分からない」


「だからって全部持つな」


「これだけ」


 養父はしばらく彼を見ていたが、取り上げなかった。


「自分で持て」


「最初からそのつもり」


 紙束を自分の鞄へ入れようとして、手が止まる。行きに残した余白へ薬の補助資材が入り、もうほとんど空きがない。


 結局、薬箱と背中の間へ挟んだ。


 歩けば擦れる。走れば落ちるかもしれない。


 軽いのに、邪魔だった。


 同行の女が受領した記録媒体を老人と照合しているあいだ、彼は壁際の書架を見ていた。


 古い資料ほど背表紙の色が褪せている。避難、保護、移送、医療、事故、軍事、共生体、旧人類、移行期。昨日まで記録室で見ていた言葉と、地上で初めて見る言葉が同じ棚に並んでいた。


 《旧市街避難・保護統合索引》


 そこで目が止まった。


「これ、姉ちゃんの記録も探せる?」


 老人は端末から顔を上げる。


「可能性はある。ただし今日はやらないと言っただろ」


「索引を見るだけなら?」


「同じだ」


 端末の検索欄は開いたままだった。上着の内側には姉の名前を書いた紙がある。


 さっき、自分で「次」と決めた。


 それでも、検索欄を目の前にすると、その決定が急に遠くなった。


「名前だけ入れたら、候補があるかくらい分かる?」


「やめろ」


 養父より先に老人が言った。


「古い索引は現行系と繋がってる。照会履歴が残る」


「名前を見るだけだろ」


「何を見るかより、どこを開いたかが残るんだ」


「履歴が残ったら何が困るの」


「旧系統には避難記録だけじゃなく、当時の軍事や保護経路も繋がってる。未申請で触れば確認が入ることがある」


 彼は端末から一歩離れた。


 薬。指定された医療記録。


 今日持ち帰ると決めたものは分かっている。


 老人が記録媒体を女へ返す。その瞬間、端末の脇に表示された索引の一行が目に入った。


 《旧市街避難・保護統合》


 姉が地上に残った時期と重なる。


 指が先に動いた。


「おい!」


 画面が切り替わる。


 名前ではなかった。番号、施設、日付。何百件もの項目が一度に並び、どこを見ればいいのかさえ分からない。


 老人がすぐに画面を閉じた。


「馬鹿!」


「一秒だろ」


「一秒でも開いた」


 端末の隅に黄色い表示が点いた。


 《旧系統照会》


 さっきまで単なる文字だったものが、今度は自分の指の跡に見えた。


「消せる?」


「消した方が目立つ」


 老人は椅子を引いて立ち上がった。


「帰れ。確認が来る前に」


「でも、まだ何も見てない」


「だから帰れるうちに帰れ」


 養父の手が肩へかかる。


「荷物を確認しろ」


 薬箱。指定記録。自分の鞄。そして、背中へ挟んだ共生系資料。


「ある」


「行くぞ」


 研究棟の裏口を出ても、誰かが追ってくる気配はなかった。


 朝と同じ街が動いている。信号が変わり、配送車が曲がり、向こうの店から客が出てくる。


「何も来ないじゃん」


「来ない方がいい」


「警報でもなかった」


「だから歩け」


 角を曲がると、制服姿の二人が正面から来た。胸元に同じ印がある。


 彼の足がわずかに遅くなる。


「こんにちは」


 二人のうち一人が軽く会釈した。


 養父も返す。


「どうも」


 すれ違う。


 彼は振り返りかけたが、首だけで止めた。


「警察?」


「管理局」


「追ってきた?」


「お前を見てもいなかっただろ」


 二人はそのまま研究棟へ入っていった。


「偶然?」


「今のところはな」


 その言い方が嫌だった。


 予定していた帰路へ向かうと、朝にはなかった工事柵が歩道の一部を塞いでいた。作業員が資材を運び、車両が路肩へ寄せられている。


「朝はなかった」


「作業が始まったんだろ」


 同行の女が先を見る。


「入口までは行ける。少し回ろう」


 そのとき、女の端末が短く鳴った。


 表示を見た顔から、さっきまでの余裕が消える。


「研究棟から。旧系統への未申請照会で確認が入った」


 全員が彼を見る。


「俺?」


「他に誰がいる」


「一個開いただけだろ」


 養父が歩きながら言った。


「一個開いたからだ」


「走る?」


「まだ走るな。目立つ」


 訓練担当の男が地図を広げた。


「予定の入口は避ける。第二入口へ回る」


「予定と違う」


「お前が変えた」


 言い返せなかった。


 薬箱を背負い直す。身体を捻った拍子に、共生系資料が半分ずり落ちた。慌てて肘で押さえる。


 養父がそれを見る。


「それ、置いていけ」


「これ?」


「指定外だ」


「でも、せっかく」


「今決めろ」


 紙束を片手に持つ。


 薬箱は背中にある。指定記録は同行者が確保している。この資料には、さっき知りたかったことが書いてある。地上を理解するためのものだ。


 軽い。


 持ったままでも歩ける。


 たぶん走れる。


 養父はもう「持てるか」とは聞かなかった。


「何を持ち帰る」


 第5話の管理室で、同じことを聞かれた。


 あのときは全部持てるようにすると答えた。


 彼は紙束と薬箱を交互に見る。


 地下の診療所で薬を待っている子供の顔が浮かんだ。


 工事柵の脇に、紙類の回収箱がある。


 そこまで三歩だった。


 一歩目で、まだ迷っていた。


 二歩目で、表紙をもう一度見た。


 三歩目で、紙束を箱へ落とした。


 乾いた音がした。


「行く」


 養父は褒めなかった。


「行くぞ」


 それだけだった。


 第二入口へ着くころには、肩の後ろが汗で濡れていた。


 女が認証盤へカードを当てる。


 何も起きない。


「最悪」


「開かない?」


「表示ごと死んでる」


 訓練担当の男が周囲を見回した。


「別へ回ると遠い。確認が広がる前に入れた方がいい」


 彼は薬箱を下ろした。


「見る」


「壊すなよ」


「壊れてるかどうかから見る」


 自分で言って、朝とは少し違うと思った。


 工具袋を開く。レンチは一本。ドライバーとプライヤー、針金、小型の留め具。


「あ」


「何だ」


「もう一本、置いてきた」


「朝の予備か」


「そう」


「必要か?」


 認証盤の下蓋を確認する。固定具は一本のレンチで回せる。外すと、内部の接点に薄く汚れが浮いていた。


「……いらない」


「聞こえない」


「いらない!」


 男が笑った。


「帰ったら返してやるよ」


「もういらない」


「それはそれで腹立つな」


 接点を磨き、緩んだ端子を締める。最後に配線を目で追い、蓋を戻す前に女へ言った。


「試して」


 カードが触れる。


 表示が戻った。


 一秒。


 二秒。


 《許可》


 扉が開いた。


 冷たい地下の空気が頬へ当たる。


 彼は薬箱を持ち上げた。


「帰れる」


「まだ入口だ」


 養父が先に入る。


「分かってる」


 今度は本当に分かっていた。


 扉が閉まるまで、誰も追ってこなかった。


 地下へ降りるにつれ、外の音が消えていく。風もなくなり、足音が壁から返ってくるようになる。


 薬はある。


 指定記録もある。


 共生系資料はない。姉の記録も、軍事記録もない。地上について知りたかったことのほとんどを、形としては持ち帰れなかった。


「失敗?」


 彼が聞いた。


「何が」


「資料、捨てた」


 養父は歩いたまま答える。


「薬は?」


「ある」


「指定記録は?」


「ある」


「じゃあ仕事は終わってる」


「でも」


「でもを増やすな」


 少し前なら腹が立ったと思う。


 今は、回収箱へ落ちた紙束の音を思い出した。


 軽かった。


 あんなに軽いのに、捨てるときだけ重かった。


 前を歩く男が振り返らずに言う。


「薬は持ち帰ると決めてた。それで十分だ」


 彼は返事をせず、薬箱の紐を握り直した。


 持ち帰るものは、まだ背中にあった。

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