第7話 研究棟
信号が青になったのに、彼だけが歩道に残った。
「行くぞ」
養父に肩を押される。目の前では、さっきまで走っていた車が白線の手前できれいに止まっていた。
「本当に渡るの?」
「青だからな」
「途中で来たら?」
「赤なら止まる。絶対じゃないから前も見ろ」
周囲の人間はもう道路へ出ている。彼も遅れて足を踏み出した。
左右には車線が何本もあり、前から人が来て、後ろからも足音が近づく。地下の通路なら片側を壁に預けられる。ここには何もない。
横断歩道の半ばで自転車が脇を抜けた。
「すみません!」
女の声と風が同時に通り過ぎる。彼の右手が反射的に腰へ動いた。
「触るな」
養父の声が低くなる。
「何もしてない」
「しようとした」
手を下ろす。自転車の女はもう向こうの歩道へ着き、振り返りもしない。
自分だけが戦う準備をしていたことが、妙に目立った気がした。
研究棟は六階建てだった。白と灰色の外壁に大きなガラスの入口。植木があり、その横に自動販売機まで置かれている。彼が想像していた監視塔も銃眼もない。
「これが研究棟?」
「看板にも書いてある」
「普通じゃん」
「何を期待してた」
答える前に、入口から一人出てきた。腕が三本あった。
三本腕の男は自動販売機の前で立ち止まり、一本目の手で財布を持ち、二本目で硬貨を入れ、三本目で押し間違えたらしいボタンを戻そうとしていた。
「……三本」
「見れば分かる」
「何で普通に飲み物買ってるんだ」
「喉が渇いたんだろ」
缶が落ちる。男はそれを拾って開け、一口飲んだ。それだけだった。
彼の方が、いつまでも見ている変な人間になった。
正面入口は使わず、建物の裏へ回った。同行している女が借り物だというカードをかざすと、小さな電子音のあとで扉が開いた。
中は地下よりずっと明るかった。白い廊下には消毒液の匂いがあり、靴底の音が硬く返る。
白衣の人間とすれ違った。次に来た人の頬からは、薄い半透明の膜が耳の後ろまで伸びている。彼が避けるのに遅れると、相手の方が先に壁際へ寄った。
「どうぞ」
「あ、どうも」
すれ違ったあと、つい振り返る。
「前」
養父にまた言われた。
「見てただけ」
「見すぎだ」
「旧人類かもしれないだろ」
「今の人が?」
「その前」
「知らん。お前だって向こうから見れば珍しいかもしれんぞ」
「俺は人間だろ」
声が廊下に響いた。少し先で端末を持っていた白衣の女が顔を上げる。
彼は口を閉じた。
案内された部屋の奥には老人がいた。白衣に眼鏡、ほとんど白くなった髪。見える範囲に膜も硬質化も余分な腕もない。
「遅かったな」
「道が二本塞がってた」
「地上は待ってくれんよ。地下の地図ほどにはな」
彼は老人の手、首、耳へ順に目を走らせた。
「……人間?」
養父が目を閉じる。
老人は自分の両腕を見下ろした。
「今朝はそうだったと思うが」
「すみません。地下育ちで」
同行の女が代わりに謝る。
「見れば分かるよ。私を検査するみたいに見てる」
老人は笑った。
「旧人類?」
「その言い方なら、まあそうだ」
「地上にいるんだ。普通に?」
「今のところ、毎朝追い出されてもいない」
「何で」
「その話の前に仕事だ。薬を持って帰るんだろ」
老人が部屋の奥を指す。保冷箱を含む五つの箱が、台車に固定されていた。
「全部持てる」
「お前は一つだ」
養父が荷締めを確認しながら言う。
「五つあるだろ」
「四人いる」
「俺が二つ持てばいい」
彼は一番大きい箱を持ち上げてみた。重さだけなら問題ない。だが肩の荷物と合わせると、身体を捻るたび箱の角が腿へ当たる。
「……これだと走れないな」
「走る予定はない」
「予定が変わるかもしれない」
養父が初めて彼を見る。
「だから余裕を残す」
彼は箱を一つだけ背負い、留め具を締めた。
「俺が一番持てるのに」
「持てる奴ほど、空きを残せる」
まだ完全には納得できない。ただ、昨日の木箱より意味は分かった。
同行の女が老人から薄い紙束と小さな記録媒体を受け取る。
「指定分はこれで全部?」
「紙はな。残りは媒体に入ってる」
彼はその媒体を見た。
「十八年前の記録もある?」
養父がこちらを見る。
「おい」
「聞くだけ」
老人は二人を見比べた。
「誰を探してる」
彼は姉の名前を言った。
「生年月日は?」
「知らない」
「当時の住所、保護番号か移送番号は?」
「それも知らない。名前だけ」
老人は眼鏡を押し上げた。
「検索自体はできる。ただ、名前だけだと候補を拾って、その先を一件ずつ追うことになる」
「今できる?」
「できるよ」
彼の手が上着の内側へ動いた。姉の名前を書いた紙がある。
そのとき背中の薬箱が肩を引いた。
地下で待っている人間がいる。昨日、閉まらなかった鞄まで思い出した。
「……どれくらいかかる?」
「分からん。一時間かもしれないし、半日でも足りないかもしれない」
紙を出しかけた指を止める。
「次でも検索できる?」
養父が何も言わず彼を見た。
老人は頷く。
「記録が消えなければな」
「じゃあ次」
言ってから、自分で少し驚いた。
「ちょっとで済まない顔をしてるから、その方がいい」
「どんな顔だよ」
「全部持って帰ろうとする顔だ」
養父が薬箱を持ち上げた。
「行くぞ」
今度は彼もすぐに立った。
帰路へ入る前に、研究棟の食堂で昼を取った。パンとスープ、それに焼いた肉。地下の食事と大して変わらない。
「地上の飯って、もっと違うと思ってた」
「人間の腹は地上でも地下でも大体同じだ」
老人がパンをちぎる。窓の向こうでは、さっき見た電車がまた走っていた。
「ここは共生人の研究棟?」
「今の運営には多いな」
「なのに、あんた働いてる」
「給料が出るからな」
「そうじゃなくて」
「家からも近い。昼飯も安い」
「分かって言ってるだろ」
老人はスープを一口飲んだ。
「何を聞きたい」
彼は周囲を見てから声を落とした。
「敵の中で、何で働ける」
老人の笑いが薄くなる。
「昔のことは知ってる。ここで何が起きたかもな。でも昨日一緒に検体を整理した奴が、昔お前たちの大扉を襲ったわけじゃない」
「同じ側だろ」
「何をもって同じ側にする?」
「共生人」
「なら、お前と私は同じ側か」
「人間だろ」
「それだけで?」
答えられなかった。
帰り支度をして廊下へ出たところで、開いた研究室の画面が目に入った。人体の断面図。その内部へ、人間の臓器とは違う色の線が絡んでいる。
彼は足を止めた。
「何してるの」
室内の研究員が振り返る。
「共生系の長期安定性を見てる。この例は生来共生人」
「生まれたときから?」
「そう。世代ごとの安定性や慢性疾患との関連、治療反応を見る。普通の長期観察だよ」
「人間を変える研究じゃなくて?」
研究員が首を傾げた。
「病気を治す研究だけど」
もっと聞きたかった。
背中の薬箱が、振り向いた拍子に肩へずれた。彼は箱を戻す。
「……次に聞いていい?」
「いつでも。邪魔じゃなければ」
養父が廊下の先で待っていた。
「行くぞ」
「今行く」
自分から研究室を離れた。
建物の外では、学校帰りらしい子供たちが歩道を走っていた。一人の腕には薄い膜があり、隣の子がそれを摘まんで引っ張る。
「やめろって!」
「伸びるじゃん!」
「痛い!」
「先生に言うぞ!」
「言えば!」
膜のある子が追いかけ、もう一人が笑いながら逃げる。残りの子供たちも巻き込まれて走り出した。
彼は足を止めずに見た。
昨日、大扉の前でも子供が菓子を食べ、親に叱られていた。扉には死者の名前が刻まれている。
ここでは、共生人の子供が友達とふざけている。
どちらも、自分たちが歴史の上に立っているようには見えない。
「ここって、占領されたんだよな」
養父が歩調を緩める。
「昔は人間の街だったんだろ。なのに、何でこんな普通なんだ」
「普通じゃないと思ってたからだろ」
「答えになってない」
「答えは自分で見ろ」
また突き放されたようで腹が立った。それでも続きを迫らなかった。
背中には薬がある。地下で待っている人がいる。
信号の前まで来た。赤だった。
彼は止まる。
隣では腕に膜のある会社員らしい男も止まり、反対側には買い物袋を下げた老婆がいる。自転車の学生は片足を地面につき、信号が変わるのを待っていた。
誰も彼を見ていない。
青になる。
人が一斉に歩き出した。
彼も歩いた。
今度は腰へ手をやらなかった。
占領地という言葉は、まだ捨てていない。
ただ、その言葉だけでは目の前の街を全部持ち帰れなくなっていた。




