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第6話 上へ


 彼が工具袋へ手を伸ばすと、訓練担当の男は黙って秤を机の中央へ置いた。


「……何本まで?」


「昨日より進歩したな」


「何本」


「本数じゃない。重さと用途で決めろ」


 彼は工具袋を開いた。レンチを一本、ドライバーを二本、細いプライヤー。予備まで掴みかけて、秤を見る。


「これは?」


「何に使う」


「何か壊れたとき」


「何が壊れる」


「分からない」


「なら置け」


 昨日なら言い返していた。


 彼は工具を机へ戻した。代わりに細い針金と小型の留め具を取る。軽い。用途も多い。


「それはいい」


「最初から言えよ」


「自分で選ばないと地上で俺の顔を探すだろ」


 横で見ていた友人が笑った。


「地上まで面倒見てもらう気だったの?」


「違う」


「はい、昼」


 小さな袋を渡される。


「母ちゃんが持ってけって。俺の分は別にあるから食えよ」


 彼は受け取り、荷物の上部へ入れた。潰れにくい場所を探していると、友人が机に身を乗り出す。


「あと、地上のネジが落ちてたら拾ってきて」


「何で」


「地下のと違うか見たい」


「同じだろ」


「見てないのに?」


 返事が止まった。


 昨日までなら、同じに決まっていると言っていた気がする。


「……荷物にならなかったら」


「それでいい。それと空」


「空?」


「本物。資料じゃなくて。どんなのだったか教えて」


 友人は冗談を言う顔ではなかった。


「自分で行けばいいだろ」


「行けるようになったらな」


 軽く答えられて、彼はそれ以上言えなかった。


 荷物の口を閉じる。男が持ち上げて重さを確かめ、肩紐を一段短くした。


「帰りは薬が増える。この余白を埋めるな」


「ネジ一個くらい」


「拾う前に考えろ」


「分かってる」


「今のは昨日より信用できる」


 三番線を出るとき、友人は大扉の前までついてきた。


 祭りの屋台はもうない。床の案内線が露出し、大扉の縁に刻まれた名前も、朝の薄い照明ではただの傷に近く見えた。


「そっちじゃないんだよな」


 友人が大扉を見る。


「別の道」


「帰ってきたら空、忘れるなよ」


「ネジじゃないの?」


「両方」


「増やすなよ」


「お前が言うな」


 笑って別れた。


 地上へ向かう四人は、大扉とは逆方向へ歩き出した。


 養父が先頭。昨日の管理室にいた女が続き、彼、その後ろに訓練担当の男がつく。


 知っている通路はすぐ終わった。


 市場の匂いも、診療所の消毒液も、居住区の煮込みや湿った衣服の匂いも薄れていく。代わりに残るのは埃と錆、それに冷たい水の匂いだった。


 地上へ行くはずなのに、最初の階段は下へ続いていた。


「上じゃないの?」


「迂回路だ」


 養父は振り返らない。


「地上は上にあるだろ」


「最後はな」


 女が笑った。


「地上初心者」


「まだ地上に出てない」


「だから初心者なんでしょ」


 言い返しながら階段を降りる。壁際を走る配管が減り、照明の間隔も長くなった。


 古い案内板の矢印に従った先で、道は壁になっていた。


 彼は地図を覗き込む。


「ここ、線が続いてる」


「地図が古い」


「じゃあ役に立たないじゃん」


 養父ではなく、後ろの男が答えた。


「道がなくなったと分かった」


「それ役に立ってる?」


「帰りに同じ場所へ来なくて済む」


 男は鉛筆を出し、地図の線へ小さく印をつけた。


 彼はその手元を見た。


 地図は正解ではない。間違った場所を消していくためにも使える。


 二つ目の経路では、古い通路を新しい構造物が横切っていた。滑らかなコンクリートの壁から太い管が何本も伸び、見たことのない配線が天井へ消えている。


「誰が作ったんだ」


「地上側だろうな」


 彼は壁へ掌を当てた。地下の古い壁より乾いていて、表面もまだ粗れていない。


「俺たちの道の上に?」


「向こうはこの道を使ってない。存在自体知らない可能性もある」


「じゃあ壊して通れば」


「帰り道を作るために、地上の設備を壊すのか?」


 養父に言われ、手が止まる。


「……別を探す」


「そうしろ」


 壁から離れた。


 自分たちの地図には道がある。目の前には壁がある。向こう側の地図には、最初からこちらの道など描かれていないのかもしれない。


 それが少し気持ち悪かった。


 三つ目の通路で、頬に何かが触れた。


 彼は足を止める。


「今の何」


「何が」


「空調」


「違う」


 女が天井を指した。


 格子の向こうから淡い光が落ちている。


 もう一度、空気が流れ込んだ。地下の送風とは違い、強くなったり弱くなったりする。方向までわずかに変わる。


 彼は格子の真下へ移動した。


「壊れてるみたいだ」


「風はそういうもの」


 匂いも来た。


 濡れたもの。土。それから、青臭い何か。


「草かな」


 女が言う。


「草ってこんな匂いするの?」


「濡れるとね」


「食える?」


 三人が一斉に彼を見た。


「何」


「地上へ出たら、お前かなり忙しいぞ」


 格子の向こうは見えない。けれど初めて、地上が場所ではなく空気として地下へ降りてきた。


 そこからは上りが続いた。


 階段を何本も越えるうち、荷物の肩紐が鎖骨へ食い込んだ。呼吸も速くなる。


「持つか」


 養父が手を伸ばす。


「持てる」


「聞いたのはそこじゃない」


 昨日の鞄が頭に浮かんだ。


 持てるかどうかで決めるな。


 彼は一度、肩紐を握った。ここで渡せば楽になる。帰りには薬が増える。


「……まだ持つ。でも休むなら言って」


 養父の手が下がった。


「分かった」


 それだけだった。


 以前なら勝った気になったかもしれない。今回は、何に勝ったのか分からなかった。


 さらに進むと天井が高くなった。


 足音が遠くへ逃げる。


 彼は無意識に壁際へ寄った。地下では、手を伸ばせば何かに触れられる距離が普通だった。ここでは頭上にも横にも空間が余っている。


「狭い方、歩く?」


 女に言われ、反射的に否定しかけた。


「……こっちでいい」


「そう」


 笑われなかったので、かえって落ち着かなかった。


 通路の先に、さっきより大きな格子があった。


 向こうで緑色のものが揺れている。


「草?」


「そう」


 彼は格子へ近づいた。


 細い葉が何十本も、風が吹くたび一方向へ倒れ、また戻る。誰も触っていないのに、地面そのものが呼吸しているように動く。


 その上を大きな影が横切った。


 身体が先に壁へ寄った。


「今の何」


「雲の影」


「雲って、上にいるやつ?」


「他にどこにいるの」


 格子へ顔を寄せても、角度が足りず空までは見えない。


「出たら見える」


 養父の声に、胸の奥が速くなった。


 ところが、予定していた出口は塞がれていた。


 古い通路の途中へ、新しい建物の基礎が落ちるように食い込んでいる。地図の線は、そのコンクリートを無視してまっすぐ先へ続いていた。


「また?」


「まただ」


 女が地図へ別の経路を書き込む。


「こっちなら出られる。ただし予定より早く地上を歩くことになる」


「研究棟まで?」


「少しだけ」


 養父が彼を見る。


「嫌なら戻れる」


「何で戻るんだよ」


「初めてだからだ」


「だから来た」


「目的は薬だ」


 上着の内側に、姉の名前を書いた紙がある。


 彼はそこへ手をやりかけて、やめた。


「分かってる」


「一人で動くな。何か見つけてもだ」


 返事が少し遅れた。


「……分かってる」


 養父はそれ以上言わなかった。


 出口は鉄の蓋ではなく、古い建物の裏口だった。


 女が鍵を外す。


 扉の隙間から光が一本入り、床を白く切った。


 開くにつれて光が太くなる。


 彼は目を細めた。


 風が入ってきた。


 さっき格子越しに嗅いだ土の匂い。それに、もっと多くの知らない匂いが混じっている。


 一歩出る。


 最初に見えたのは灰色の壁だった。


「……壁じゃん」


 女が吹き出した。


「何を期待してたの」


「別に」


 舗装された地面。ごみ箱。室外機。壁際に生えた草。地下より雑然としているのに、どれも自分の知らない配置だった。


「これが地上?」


「これも地上」


 風が止まり、別の方向からまた吹いた。


 彼は周囲を見回す。


 壁。建物の角。戻ってきた扉。細い通路。


 逃げ道を探していると気づいたとき、養父が言った。


「前」


 建物の角を曲がった。


 足が止まった。


 道がある。


 地下の通路とは比較にならないほど広い。向こう側にも建物があり、そのさらに奥にも建物が続いている。車が走り、自転車が抜け、人が歩く。看板があり、店があり、制服姿の子供までいた。


「街……?」


「そうだ」


「残ってる」


 養父は答えなかった。


 もっと壊れていると思っていた。


 地上は奪われた場所だと教わった。だったら、残骸の中を敵が歩いているのだと思っていた。


 向こうから男が来る。


 彼は肩へ力を入れた。


 男は何もせず横を通り過ぎた。


 次に来た女の腕は、皮膚の一部だけが金属に似た光沢を帯びていた。思わず目で追うと、女も一瞬こちらを見た。


「見るな」


 養父が小声で言う。


「でも今の」


「歩け」


 制服姿の子供が二人、笑いながら近づいてきた。一人は彼と変わらない人間に見える。もう一人の首筋には薄い膜のようなものがあり、走るたびに揺れていた。


 二人は同じ鞄を持ち、同じ話で笑っている。


「一緒の学校?」


「見たままだ」


「何で」


「今は聞くな」


 振り返ろうとした肩を、養父の手が前へ戻した。


「前」


「分かってる」


 分かっていなかった。


 少し先で低い振動が響いた。


 地下で聞く機械音とは違う。規則正しく近づき、建物の隙間を銀色の車体が走り抜けた。


 窓がある。


 中に人がいる。


 一瞬で消えた。


「今の……」


「電車」


 男が答えた。


 彼は電車が消えた方向を見たまま動けなかった。


 三番線にも線路はある。使われなくなった設備も、古い車両の一部も残っている。電車とは、そういう終わったものの名前だと思っていた。


「まだ、あったんだ」


「地上じゃ普通に走ってる」


 女が彼の顔を覗く。


「乗りたい?」


「別に」


「顔は乗りたそう」


「今日は仕事だろ」


 自分から言うと、養父がわずかに眉を上げた。


 歩き出す。


 研究棟はまだ先だった。


 開けた場所では、身体の置き場が分からない。彼はできるだけ壁側を歩いた。人とすれ違うたび、相手の手や首、顔を見てしまう。


 普通の人間に見える者。


 そうでない者。


 どちらなのか分からない者。


 だが、周囲の誰もそれを気にしていない。


 信号が変わると人が渡る。店の扉が開き、料理の匂いが流れてくる。子供が走り、自転車のベルが鳴る。


 彼は何度も地下へ戻れる場所を探した。


 壁。路地。階段。建物の隙間。


 目が勝手に出口を数える。


 その一方で、遠くをもう一度、銀色の電車が走った。


 今度は立ち止まらなかった。


 歩きながら見る。


 占領地。


 その言葉はまだ頭の中にある。


 敵がいなくなったとも、安全だとも思っていない。


 ただ、そこには信号を待つ人がいて、学校へ行く子供がいて、昼飯の匂いがして、電車が走っていた。


 終わったと思っていたものが、こちらでは終わっていない。


 友人に頼まれた空を思い出した。


 彼は歩きながら、初めて真上を見た。


 建物の間に、天井のない青があった。


 広すぎて、少し怖かった。


 それでも目を逸らさなかった。

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