第5話 大扉
大扉の前で肉が焦げていた。
「それ、もう焼き目じゃないだろ」
彼が鉄板を覗くと、串を握った男が黒くなった肉を素早く裏返した。
「こっち側は無事だ」
「半分炭なら半分しか食えないじゃん」
「今日は祭りだぞ。半分ただなら得だろ」
「全部ただだろ」
男は答えず、焦げた側を自分の口へ入れた。すぐに顔をしかめたので、彼は笑いながら人混みを抜けた。
三番線から二番線へ続く広場は、朝から普段の通路ではなくなっていた。長机に煮込みの鍋が並び、保存野菜や古着、修理された玩具まで売られている。子供が作ったらしい歪んだ菓子の横では、用途の分からない金属細工を老人が真剣に値切っていた。
その全部を背にして、大扉が閉じている。
巨大な金属面のすぐ下で、子供が菓子を食べていた。
「そこ座るな。開いたら潰れるぞ」
母親に叱られ、子供は三歩だけ移動してまた腰を下ろした。
「そこも邪魔!」
祭りの日でも、扉は扉だった。
彼は大扉の横にある管理室へ向かった。普段は閉じている扉の前で、養父が腕を組んで待っている。
「遅い」
「時間前だろ」
「最後に来た」
中には、記録の読み方を教えてくれた男と友人、それに見覚えのない女がいた。机の中央には古い地図が畳まれている。
友人が彼を見るなり笑った。
「本当に来た。昨日からずっと地上の顔してる」
「どんな顔だよ」
「今にも天井掘りそうな顔」
「掘らない」
「道がなかったら?」
「探す」
「ほら」
養父が管理室の扉を閉めた。
「座れ。まだお前が行くとは決まってない」
「じゃあ何で呼んだ」
「行かない場合でも、何をしているか知っておけ」
地図が開かれる。何度も折り畳まれた紙は角が白く擦れ、古い線の上から別の色で何本も経路が書き足されていた。
養父が一点を指す。
「明日、地上へ出る。目的は薬と指定された医療記録の受領だ」
彼は椅子ごと机へ寄った。
「俺も行く」
「だから最後まで聞け」
指が地図を滑った。
大扉とは逆方向へ進み、居住区の外れから古い連絡路へ入る。そこから何度か迂回し、地上側の受け渡し場所へ出るらしい。
「大扉を使わないの?」
「これは避難用だ。普段の出入りには使わん」
彼は壁一枚隔てた大扉の方を見た。
「外には繋がってるんだろ」
「繋がってる。でも開ける必要がない」
養父はそこで話を切り、地図へ指を戻した。
「問題は帰りだ。受け取る荷物が増える。だから行きより重くなる」
記録を教えてくれた男が、机の端に置かれた空の鞄を彼の前へ滑らせた。
「試してみろ」
「何を」
「お前なら何を入れる」
机の脇には訓練用らしい荷物がまとめてあった。水、食料、工具、予備電池、救急用品。彼は迷わず手を伸ばし、鞄へ詰め始めた。
水。食料。工具袋。予備電池。
「待て」
男が工具袋を引き抜く。
「何で」
「全部はいらない」
「壊れたら困るだろ」
「何が壊れる?」
「分からないから持ってく」
友人が横から覗き込んだ。
「十七のレンチ三本持ってく奴だもんな」
「一本壊れたらどうするんだよ」
「三本全部必要になる壊れ方って何?」
「あるかもしれないだろ」
知らない女まで笑った。
男は工具袋を開き、数本だけ選んで鞄へ戻した。その空いた場所へ、薬の箱を模した木箱を二つ入れる。
「帰りはこうなる。さらに記録が増えるかもしれない。途中で誰かが怪我をすれば、水も救急用品も使う」
もう一つ木箱を渡された。
入らない。
彼は鞄を押し広げた。角度を変え、食料を横へずらす。それでも蓋が閉まらない。
「じゃあ、何を捨てる」
「捨てない」
「閉まってないぞ」
「持てばいい」
木箱を腕に抱える。
男は何も言わず、さらにもう一箱差し出した。
「……増やすなよ」
「地上はお前の都合で荷物を減らしてくれない」
彼は二箱を重ねた。下の箱が滑り、慌てて顎で押さえる。友人が吹き出した。
「それで帰ってくるの?」
「帰れる」
「扉も開けられないじゃん」
言われて、彼は管理室の取っ手を見た。
両手が塞がっている。
男が箱を一つ取り上げた。
「覚えるのは三つだ。目的、帰路、捨てるもの。全部持つ方法を考える前に、何を持ち帰るための仕事なのか決めろ」
「薬は捨てない」
「なら記録は?」
彼は答えかけて止まった。
昨日見つけた姉の名前が頭へ浮かぶ。
「記録も捨てない」
「両方持てないなら?」
「持てるようにする」
男は養父を見た。
「やっぱり荷物増やすタイプだ」
養父だけは笑わなかった。
「だから今回は留守番だ」
彼は抱えていた木箱を机へ戻した。
「薬、足りないんだろ」
「足りない」
「なら人手いるじゃん」
「経験のない人手を地上で練習させる余裕はない」
「じゃあ、いつ経験するんだよ」
「俺が行けると判断したときだ」
「いつ」
「知らん」
昨日と同じ答えだった。
腹が立って椅子を引く。立ち上がった拍子に、上着の内側で紙が擦れた。
「姉ちゃんの記録も、地上にあるかもしれない」
部屋が静かになった。
友人が笑うのをやめた。
「姉ちゃん?」
しまったと思ったが、もう遅い。
「昨日、記録で見つけた。俺がここへ来たとき、地上に残ったらしい」
「今も?」
「分からない。だから調べる」
養父が地図を畳みかけた手を止めた。
「それと今回の仕事は別だ」
「同じ地上だろ」
「場所が同じなら目的まで同じになるのか」
「ついでに調べればいい」
「その『ついで』を増やす奴から帰れなくなる」
養父の声が低くなった。
男が彼の前の鞄を指で叩く。
「さっきと同じだ。薬、医療記録、姉の記録。お前はもう三つに増やした」
「一個増えただけだろ」
「地上で一個ずつ増やしてみろ。帰るころには両手が塞がる」
さっき抱えた木箱の重さが、まだ腕に残っている気がした。
それでも彼には、姉だけを置いて帰るという選択の方が理解できなかった。
話が終わって管理室を出ると、祭りの音が一気に戻ってきた。
友人が横へ並ぶ。
「姉ちゃん、いたんだな」
「いた」
「覚えてる?」
「少し。たぶん」
友人はそれ以上聞かなかった。代わりに、さっきの肉の屋台へ寄って串を二本受け取る。
「食わない」
「俺が二本食う」
「じゃあ何で一本よこすんだよ」
「持ってて」
押しつけられたので仕方なく持つ。数歩歩いたところで友人が自分の串を食べ始めた。
「……これ、まだ焦げてる」
「だから言っただろ」
「お前のも同じだぞ」
見ると、確かに黒い。
結局二人で食べた。苦かった。
大扉の前を歩く。
さっきまで子供が座っていた場所には別の家族が立ち、古い床の案内線の上へ屋台の脚が乗っている。祭りの人混みの中では、大扉さえ広場の壁の一部に見えた。
友人が扉の端で足を止めた。
「これ、傷?」
金属の縁に細い線が並んでいる。
彼も近づいた。
傷ではなかった。
名前だった。
縦にも横にも、何十人分も刻まれている。知っている名字がいくつかあった。本人ではない。市場で見る人間や、診療所に来る人間と同じ名字だ。
「何の名前だろ」
彼が一つへ指を伸ばす。
「昔、ここで死んだ奴らだ」
背後から養父の声がした。
荷物を抱えた養父が、二人の横で立ち止まる。
「移行の襲撃があった。ここまで来た連中を中へ入れないために、大扉を閉じた」
友人の手から串が少し下がった。
「父さんもいた?」
「ああ」
彼は名前を数え始めた。
一、二、三。
途中で、祭りの子供が笑いながら横を走り抜けた。母親が追いかけていく。
数が分からなくなった。
もう一度最初から数える気にはならなかった。
「向こうにいる奴らがやったんだろ」
養父が荷物を持ち直した。
「そのとき、ここへ来た奴らはな」
「同じじゃん。地上にいる奴らだろ」
養父はすぐに答えなかった。
「明日の仕事に行きたいなら、その言い方は捨てろ」
「事実だろ」
「事実を雑に使うな」
彼は扉の名前と、そのすぐ前で笑っている人々を交互に見た。
襲ってきた。ここで人が死んだ。
その事実のどこが雑なのか、まだ分からなかった。
夜、祭りの机が片づけられると、床の古い案内線がまた姿を現した。
彼は一人で大扉へ戻った。
昼間は人と屋台に隠れていた名前が、横から差す照明でくっきり浮かんでいる。
上着から姉の名前を書いた紙を出した。
扉の名前と見比べる。
一列目にはない。二列目にもない。端まで追って、もう一度戻る。
ない。
息を吐いた。
ここで死んでいたなら、十八年前に地上へ残ったという話と合わない。分かっている。それでも、自分の目で確かめるまで紙をしまえなかった。
「何してる」
振り向くと、記録を教えてくれた男が立っていた。
「姉ちゃんの名前がないか見てた」
「なかった?」
「ない」
「なら一つ消えたな」
「何が」
「探す場所」
男は扉の名前へ手を触れた。
「俺もここで地上を習った。家族の名前が何人かある」
彼は男の横顔を見る。
「じゃあ分かるだろ。向こうの奴らが何したか」
「分かるよ」
「なら、何で父さんと同じこと言うんだよ」
「生きて帰ってきた奴に教わったからだ」
男は扉から手を離した。
「それに、明日は俺が連れて帰る側だからな」
「明日?」
「一人足りなくなった。荷物持ちが要る」
彼は紙をしまうのも忘れて男を見た。
「俺?」
「まだ決定じゃない。朝、装備を見てからだ」
「何時」
「六時」
「分かった」
「五時に来るなよ」
「行かない」
「お前は来る」
「来ない」
「賭けるか。朝飯」
「いいよ」
男が笑った。
「じゃあ六時だ」
去っていく背中を見送ってから、彼は大扉へ向き直った。
明日、この扉は使わない。
それでも、初めて地上へ行けるかもしれない。
薬を持ち帰る。指定された記録も持ち帰る。
姉のことも調べたい。
さっき閉まらなかった鞄を思い出す。
全部持てるようにする。
まだ、その考えは変わらなかった。
翌朝、彼が装備室へ着いたのは五時四十七分だった。
男はすでにいた。
「惜しい」
「五時じゃない」
「五時台だ」
「そんな条件じゃなかっただろ」
「地上では条件をちゃんと確認しろ」
「朝飯返せ」
「まだ取ってない」
「じゃあ賭け成立してない」
「面倒くさいな、お前」
男が笑った。
机の上には、昨日の空鞄ではなく、本物の地上用装備が並んでいた。
彼はまず工具袋へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
「……何本まで?」
男の笑いが少しだけ深くなった。




