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第4話 姉の名前


 十八年前の台帳をめくっていた指が、途中で止まった。


 昨日見つけた小児用の薬品記録より数枚あと。地上便の配送番号を追っていただけなのに、同じ管理番号の束から別の紙が挟まって出てきた。


 薬ではない。


 《保護児童記録》とある。


 推定五歳。男児。発見場所、健康状態、所持品。その下に自分の名前があった。


 彼は椅子を引き寄せ、紙へ顔を近づけた。文字は薄れているが読める。名前も年齢も合っている。


「これ、俺?」


 向かいで別の台帳を整理していた男が立ち上がり、肩越しに覗いた。


「可能性は高いな。時期も合う」


「可能性?」


「同姓同名が絶対いないとは言えない。記録はそういう読み方をする」


 昨日から何度も聞かされている言い方だった。


 彼は先を読んだ。


 発見時は発熱。栄養状態不良。所持品は衣類と小さな袋。移送先として、いま自分が暮らしている三番線居住区の旧名称が記されている。


 五歳の自分が、知らない人間みたいに紙の中へ収まっていた。


「俺、袋持ってたんだ」


「覚えてないのか」


「全然」


「十八年前だ。そんなもんだろ」


 彼は紙の端を押さえたまま、次の欄へ視線を移した。


 《同行者申告》


 一名。


 女児。十四歳。


 その下の氏名を見た瞬間、文字の意味だけが頭へ入ってこなくなった。


 読めないわけではない。


 むしろ、知っている。


 姉の名前だった。


 彼は反射的に紙を伏せた。


「おい」


 男の声が近くなる。


「原本を裏返すな。角が弱ってる」


「……裏も見るかと思って」


「裏は白紙だ」


「念のため」


「それ、修理のときだけにしろ」


 男が紙を戻そうと手を伸ばす。彼は先に持ち上げかけ、紙の端がわずかにしなったところで止めた。


 昨日言われた。原本は持ち出すな。


 手を離す。


「この名前」


 男は紙を読み、彼を見る。


「知ってるのか」


「姉ちゃん」


 言葉にした途端、記録室の音が急に遠くなった。端末の冷却音も、廊下を通る台車の車輪も聞こえているのに、紙の上の名前だけが妙に近い。


「これ、一緒にいたってこと?」


「《同行者申告》だから、誰かがそう申告したことまでは分かる。誰が申告したかは、この紙にはない」


「姉ちゃんが言ったかもしれない?」


「かもしれない」


「じゃあ、このとき生きてた?」


 男はすぐには頷かなかった。


「その名前の十四歳の女児が、お前の同行者として申告されている。そこまでは言える」


「同じだろ」


「同じじゃない」


 彼は椅子から立った。脚が床を擦って大きな音を立てる。


「名前あるじゃん」


「ある。だから追えるかもしれない。でも、お前が欲しい答えを先に書き足すな」


「書き足してない」


「生きていたと決めただろ」


 言い返そうとして、口が止まった。


 紙には、姉の名前がある。


 それだけだった。


 男は責めるような顔をしていない。子供たちに番号札を配るときと同じ、待つ顔だった。


「……写す」


「そうしろ」


 紙と鉛筆を出す。


 自分の名前は飛ばした。発見場所も、熱があったことも、袋を持っていたことも、今はどうでもよかった。


 姉の名前だけを書こうとして、鉛筆の先が紙へ触れたまま止まる。


 知っている名前なのに、一画目が妙に重い。


「急ぐな。原本は逃げない」


「分かってる」


 一文字ずつ写した。


 書き終えると、男が原本と見比べる。


「合ってる」


「俺も読める」


「さっき読めなくなってただろ」


 彼は紙を掴んで記録室を出た。


 養父を探した。


 診療所にはいない。受付の女が「二番線側へ往診」と教えてくれた。食堂の前を抜け、市場を横切る。


「走るな!」


 いつもの怒鳴り声が飛んだ。


 今日は止まれなかった。


 二番線へ降りる階段を二段ずつ飛ばす。三番線より照明が少なく、途中から床が古いタイルへ変わる。使われなくなった車両の一部が壁代わりに据えられ、その隙間を細い通路が縫っていた。


「父さん!」


 声が響いた。


 すぐ横の部屋から「病人いるんだぞ!」と怒鳴り返され、彼は足を止めた。


「……すみません」


 今度は声を落とす。


「父さん」


「ここだ」


 奥の部屋から返事がした。


 養父は老人の前へ膝をつき、腫れた足首へ包帯を巻いていた。彼が紙を差し出すと、養父は一度だけ見て、顎で壁際を示した。


「待て」


「でも」


「今はこっちだ」


 老人の足が養父の膝に載っている。


 彼は紙を握ったまま壁際へ下がった。


 包帯が一周、二周と足首を覆う。養父は老人に立たせ、二歩だけ歩かせた。


「痛むか」


「少しな。飯くらいなら取りに行ける」


「今日は歩くな。持ってくる」


「酒も?」


「歩けるようになったら考える」


「じゃあ今歩く」


「次やったら反対の足も折るぞ」


 老人が笑った。


 彼は笑えなかった。


 養父が道具を片づける。金具を箱へ戻し、手を拭いてから、ようやく彼の紙を受け取った。


「で、何だ」


「これ」


 姉の名前を見た瞬間、養父の指が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 でも見逃さなかった。


「知ってるんだ」


 問いではなかった。


 養父は紙をもう一度見た。


「ああ」


「姉ちゃんだよな」


「ああ」


 胸の奥が強く鳴った。さっきまで記録の上にしかなかった名前が、養父の記憶にも存在している。


「俺がここに来たとき、生きてた?」


「生きてた」


 今度は曖昧な言い方ではなかった。


「どこにいた」


「地上側だ」


「なんで俺だけここにいる」


 養父は老人へ一度目を向けた。老人は聞こえないふりをして壁の方を向いている。


「外で話すぞ」


 二人で通路へ出た。


 遠くで水が落ちる音がする。彼は養父が振り返るより先に紙を胸元へ戻した。


「なんで置いてきた」


「置いてきたんじゃない」


「じゃあ何」


「お前を通した」


「誰が」


 養父の返事が一拍遅れた。


 その間に、答えが分かった。


「姉ちゃん?」


「ああ」


 何かが頭の奥で動いた。


 暗い場所。狭い隙間。身体を押された感触。


 顔はない。


 声も、言葉までは戻らない。


 ただ、手だけがある。


 背中だったか。腕だったか。思い出そうとすると位置が変わる。


「何で一緒に来なかった」


「来られなかった。お前を通したあとで道が塞がった」


「戻ればよかっただろ」


「戻れなかった」


「別の道は」


「探した」


「どれくらい」


 養父の目が細くなった。


「探したよ」


「答えになってない」


「なる答えがないんだ」


 彼は紙を握る手に力を入れた。


「じゃあ、姉ちゃんは死んだの」


「知らん」


「生きてる?」


「それも知らん」


「何で知らないんだよ!」


 声が通路の奥まで跳ね返った。


 さっき怒鳴られた部屋の戸が少し開き、すぐ閉じる。


 養父は怒らなかった。


「すまん」


 その一言の方が腹が立った。


「謝るなよ」


「じゃあ何て言えばいい」


「知らない」


「俺もだ」


 紙が掌の中で鳴った。


 見れば、姉の名前の横に皺が走っている。


「あ」


 慌てて手を開き、壁へ紙を当てて掌で伸ばす。一度では戻らない。二度、三度と撫でても、薄い線が残った。


 養父は手を出さなかった。


「地上に残ったんだな」


「十八年前はな」


「なら、その後の記録もあるかもしれない」


「あるかもしれん」


「調べる」


「そうか」


「止めないの?」


「記録を調べることは止めん」


 彼は皺の残った紙を見た。


「見つかったら、連れて帰る」


 今度こそ、養父がすぐには答えなかった。


「何」


「……いや」


「何だよ」


「見つけてから考えろ」


「何を」


「全部だ」


 意味が分からなかった。


 姉は地上に残った。自分は地下にいる。見つけたら連れて帰る。それ以外に何を考える必要があるのか。


 彼は紙を四つ折りにしようとして、皺を見てやめた。二つだけに折り、上着の内側へ入れた。


 養父の往診が終わるまで待たず、記録室へ戻った。


 さっきの男は別の棚を整理していた。


「戻ったのか」


「姉ちゃん、地上に残ったって」


 男の手が止まる。


「養父さんから聞いた?」


「うん。その後の記録を探す」


「今日は配送記録の続きじゃなかったか」


「両方やる」


 男はため息をついたが、止めなかった。


「名前だけで探すなよ。年齢、時期、場所。拾える条件は全部使え」


「分かってる」


「今覚えた顔だな」


「今覚えた」


 彼は自分の保護記録をもう一度開いた。


 さっきは見なかった欄も、今度は読む。


 姉を探すためなら、自分の発見場所も、移送時刻も、知らない管理番号も必要になる。


 自分の過去が、初めて道具になった。


 夜、寝床へ戻ってから紙を開いた。


 照明を落とす前に、姉の名前を一度読む。


 目を閉じて、五歳のころを探した。


 暗い場所。近い天井。押された感触。


 手。


 そこから先を思い出そうとすると、手の向きが変わった。背中を押された気もする。前から引かれた気もする。声も、姉のものだったと決めた途端に違う声へ変わる。


 彼は目を開けた。


 思い出すのをやめる。


 紙の名前は変わっていない。


 記憶より、今はそちらを使うことにした。


 枕元へ紙を置く。


 少しして、なくなっていないか気になって、もう一度触った。


 そこにある。


 薬を取りに地上へ行きたいと思っていた。


 今は、もう一つある。


 姉の記録を探す。


 見つかったら連れて帰る。


 彼の中では、もう決まっていた。


 その夜、いつもなら近すぎるだけの天井が、初めて何かを隔てているように見えた。

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