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第3話 地上から来た薬


 養父が錠剤を包装から出し、机の上へ置いた。中央に一本だけ溝が入った、小さな白い錠剤だった。


「これ、半分にするの?」


「七番には半錠でいく」


 養父は薬を割る器具へ錠剤を置いた。彼はその手元を覗き込み、眉を寄せた。


「半分で効くのか」


「薬だけで治すわけじゃない。休ませて、食わせて、水を飲ませて、熱を見る。悪くなればまた診る」


「薬の話してるんだけど」


「俺は病人の話をしてる」


 昨日から、こればかりだった。


 彼が欲しいのは、足りるか足りないかという答えだ。養父はいつも、その外側まで含めて答える。


 机には地上便で届いた薬が並んでいた。小瓶や包装をまとめて見れば、それなりの量に見える。けれど患者の名前が書かれた紙を横へ置き、一人ずつ割り当てていくと、空白の方が目についた。


 養父が割った半錠を小さな紙へ包み、「七」と書く。残った半分は箱へ戻した。


「九番は?」


「今日は使わない。熱が下がった」


「昨日も薬なかったのに?」


「寝て、水飲んで、食えた。それで下がる熱もある」


 彼は箱へ戻された半錠を指した。


「じゃあ、それ七番にやればいいじゃん」


「明日、もっと悪い奴が出るかもしれん」


「出なかったら?」


「七番に使える」


「出たら?」


 養父は箱の蓋を閉じた。


「そのとき考える」


 その言葉が嫌いだった。


 壊れてから直す。足りなくなってから探す。苦しくなってから、どうするか決める。


 配管なら、壊れる前に音が変わることがある。昨日だってそうだった。だったら薬も、足りなくなる前に増やせばいい。


「最初からもっとあればいいだろ」


 養父は次の紙包みに患者の番号を書きながら、「そうだな」とだけ答えた。


 昼前になると、診療所の前に列ができた。


 彼は入口で受付の紙を持たされ、来た人間の名前と印を照らし合わせた。眠そうな女の子を連れた母親には薬の印がある。老人にもある。その次の男にはない。


「今日は診察だけだって」


 彼が告げると、男は肩をすくめた。


「分かってるよ。そんな顔すんな」


「どんな顔」


「お前が俺の薬を隠したみたいな顔」


「隠してない」


「知ってる。だから困るなって」


 男は笑って中へ入った。


 紙の上では、薬がある人とない人が小さな印ひとつで分かれている。その印をつけたのは彼ではない。それでも「ない」と口にするたび、相手から何かを取り上げているような気分になった。


 列の最後に、十歳くらいの少年が一人で立っていた。


「親は?」


「仕事。俺だけ来た」


 名前を聞いて紙を探す。欄はあったが、横についているのは診察だけの印だった。


「先に診てもらって」


 少年は動かなかった。


「薬、ある?」


「それは診てもらってから」


「昨日もなかった」


 少年の声には怒りより、確かめるような響きがあった。昨日なかったものが、今日はあるのか。それだけを知りたいらしい。


 彼は紙を見直した。見直しても印は増えない。


「……俺には分かんない。中で聞いて」


「そっか」


 少年はそれ以上食い下がらず、診療所へ入っていった。


 その小さな背中を見ているうちに、妙な感覚がした。


 自分も、あれくらいの大きさだったことがあるはずだ。


 記憶を探すと、最初に出てきたのは顔ではなく熱だった。毛布の重さ。近すぎる暗い天井。誰かの腕に身体を持ち上げられた感触。それから、舌に残る苦さ。


 続きを掴もうとしたところで、紙束が肩へ軽く当たった。


「終わり。ぼーっとしてると昼なくなるよ」


 受付の女だった。気づけば列は消えている。


 彼は診療所の奥を見た。


「俺も昔、ここ来てた?」


「私が来る前じゃない?」


 奥でコップを洗っていた養父が答えた。


「来てたぞ。小さいころ、何度も熱出してた」


 彼は入口から一歩中へ入った。


「薬も使った?」


「ああ。地上から来たやつもな」


 水を切ったコップを伏せる音がした。


「そんなに悪かったの?」


「一度は死にかけた」


 彼は養父の顔を見た。冗談を言っている顔ではない。


「聞いてない」


「聞かれなかったからな」


「地上の薬がなかったら?」


 養父は少し考えた。


「助からなかったかもしれん」


 軽い調子ではなかった。それでも、養父にとっては十八年も前に終わった話なのだと分かった。


 彼にとっては、今初めて始まった話だった。


 昨日から何度も見ていた空の棚へ目を向ける。そこに置かれていたものと同じ種類の薬を、自分も飲んだことがある。


 地上から届いた薬で、自分が生き残ったかもしれない。


「なんで今まで言わなかったんだよ」


「お前、今まで自分が何飲んで生き延びたか気にしてたか?」


「……してない」


「なら、今日知った。それでいい」


 納得はできなかったが、言い返す言葉もなかった。


 午後、彼は配給所の横で、空になった地上便の箱から荷札を剥がしていた。


 品名らしい文字は読める。数字もある。その横に、意味の分からない記号がいくつも並んでいた。


「剥がして集めても薬にはならんぞ」


 声をかけてきたのは、昨日、大扉の前で子供たちに番号を教えていた男だった。


「分かってる。これ、どこから来たか書いてない?」


 男は彼の隣へしゃがみ、荷札を受け取った。


「ここが品名、こっちが数量。これは保管条件。配送番号はこれだな」


「場所は?」


「荷札だけじゃ分からん。番号を記録と照らせば、経路は追えるかもしれない」


「どこで見られる?」


「記録室」


 彼は立ち上がった。


 男は荷札を返さず、その端を二本の指で摘まんだままだった。


「今から行って、その先は?」


「どこから来たか調べる。分かったら取りに行く」


「何を取りに行く」


「薬」


「どの薬を、いくつ?」


 彼は口を閉じた。


 昨日よりは知っている。七番が飲む薬の名前を一つ覚えた。半錠にすることも知った。箱には保管条件が書いてあることも、たった今知った。


 でも、それだけだ。


「昨日より知ってる」


「それは見れば分かる」


 男は荷札を返した。


「だから記録室へ行くんだ。行く方法を考える前に、必要なものを増やせ」


「必要なもの?」


「知識もだ」


 二人で歩き出した。彼が無意識に半歩前へ出ると、後ろから「速い」と言われる。


「急いでない」


「俺を置いていく速度を、世間では急いでるって言う」


 彼は少しだけ歩幅を落とした。


 記録室は大扉から少し離れた区画にあった。


 中へ入ると、年代の違うものが一つの部屋へ押し込まれている。背の高い古い書架の横に金属棚が増設され、その隙間へ紙箱が積まれていた。机の上には現役の端末が二台。その脇には壊れた端末が部品取り用らしく開腹されたまま置かれ、壁際には修理済みらしい古い機械まで残っている。


「どこから見る?」


 彼が聞くと、男は端末ではなく、分厚い台帳を一冊引き抜いた。


「まずこれ」


「古くない?」


「古い。だからいい」


「今の配送が知りたいんだけど」


「古い記録も読めない奴に、新しい記録の何が変わったか分かるのか?」


 台帳を押しつけられた。


 開くと、日付、品目、数量、受領欄が罫線で区切られ、その間に見慣れない記号が混ざっている。


「これ何」


「対応表がある」


「どこ」


「探せ」


「知らないから聞いてるんだけど」


「一回探して、それでもなければ聞け。地上で横に先生が立ってくれるとは限らん」


 面倒くさい。


 そう思いながら棚を探すと、背表紙の薄れた対応表が本当にあった。目的の記号を見つけて台帳へ戻る。


 地上から薬はずっと来ていた。


 ただし、同じ量ではない。多い月も、少ない月もある。記録上、何も届いていない月さえあった。


 ページを遡っていた指が、ある年で止まった。


「これ、十八年前」


 男が隣から覗き込む。


 彼が三番線へ来たころだ。


 薬品名と数量。その横に《小児用》という記載がある。


「これ、俺が使ったやつ?」


「分からん。同じ薬を使った子供が他にもいたかもしれない」


「でも、時期は同じ」


「同じだな。だから可能性はある。それ以上は、この記録からは言えない」


 彼は文字を指でなぞりかけ、紙を汚しそうでやめた。


 自分の記録ではないかもしれない。それでも十八年前にも、地上から薬が地下へ降りてきていた。そのどれかに、自分の命が繋がっていた可能性がある。


 次のページをめくる。


 また知らない記号が出た。


 今度は男へ聞かなかった。さっき戻した対応表をもう一度取り、自分で探す。


 男も何も言わなかった。


 夕食を知らせる放送が流れたころ、彼はようやく顔を上げた。


「今日は終わり」


 男が台帳へ手を伸ばしたので、彼は反射的に押さえた。


「あと少し。ここまで見る」


「明日やれ」


「忘れる」


「忘れる程度なら覚えなくていい」


「覚えてる。だから続きも今見る」


「なら明日、同じ場所から始められる」


 台帳を取り上げられた。


「みんな飯ばっか言うな」


「食わない奴から死ぬからな」


 それを言われると、養父の顔が浮かんだ。彼は諦めて記録室を出た。


 帰り道、大扉の前を通る。


 扉はいつも通り閉じていた。継ぎ目の向こうは見えず、耳を寄せても地上の音など聞こえない。


 けれど今日は、ただの壁には見えなかった。


 この向こうから薬が来る。昨日届いた箱だけではない。自分が五歳だったころにも、同じ方向から薬が降りてきた。


「明日も見る」


 歩きながら言うと、男は「好きにしろ」と答えた。


「配送記録、全部覚える」


「全部はいらない」


 彼は振り返った。


 男は大扉ではなく、彼を見ていた。


「必要なものを覚えろ。全部抱えて歩ける奴なんかいない」


 その言葉だけは、なぜか気に入らなかった。


 彼はまだ、必要なものと、捨てていいものの違いを知らなかった。

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