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第10話 空


 朝、目を開けた瞬間、天井が近かった。


 彼は寝台に仰向けのまま、頭上を走る配管を見つめた。昨日までと同じ高さで、同じ補修跡があり、照明の端には落としきれない汚れまで残っている。


 手を伸ばしてみる。当然、届かない。


「……何でだ」


 隣の寝台で友人が毛布から顔だけ出した。


「朝から何と喧嘩してるの」


「天井」


「あるよ」


「知ってる」


「なくなったら起こして」


「それは起きろよ」


 友人はまた毛布へ沈んだ。


 彼は腕を下ろした。


 狭くなったわけではない。自分が、もっと高いものを知ってしまっただけだった。


 診療所へ行くと、第9話で持ち帰った薬がもう棚へ並べられていた。昨日見た子供が椅子に座り、母親に背中を支えられながら小瓶の薬を飲んでいる。


「それ、昨日の?」


 医療担当が頷く。


「お前らが持ってきた分だ」


 子供がこちらを見る。


「地上行ったの?」


「行った」


「空あった?」


「ある」


「どれくらいでかい?」


 彼は両腕を広げた。診療所の壁に指先が近づく。


 違う。


 腕をもっと広げても、そもそも比べ方が違う。


「分かんない。端が見えない」


「端ないの?」


「見えなかった」


 子供は眉を寄せた。


「怖い」


「だろ」


「でも見たい」


 返事が喉まで来て、一度止まった。


 危ない。行くな。地上は占領地だ。


 以前なら、それで終わっていた。


「そのうち見られるといいな」


 母親が少し驚いたように彼を見る。自分でも居心地が悪くなり、彼は診療所を出た。


 昼前、養父が工具置き場で待っていた。


「外へ行くぞ」


「また地上?」


「嫌なら残れ」


「行く」


 答えが早すぎて、養父の眉が上がった。


「昨日使った西側経路の確認と、水没してた区画の外回りを見る。遊びじゃない」


「分かってる」


 工具袋を開く。レンチを一本入れ、予備へ手を伸ばしたところで止めた。


 昨日、第二入口を直したときも一本で足りた。


 手を引っ込める。


「一本?」


 いつの間にか友人が後ろにいた。


「一本」


「成長した」


「うるさい」


「ネジ」


 彼の手が止まる。


「……今日は忘れない」


「拾うなよ。地上に店あるなら買ってきて」


「ネジだけ売る店なんてあるの?」


「俺が地上の店知るわけないだろ」


 養父が工具袋を肩へ押しつける。


「店探しは仕事が終わってからだ」


「分かってるって」


 西側入口の扉を開けると、昼の光が階段の途中まで差し込んだ。


 前回ほど足は止まらない。


 外へ出て、まず道路を見る。車の流れ、歩行者、信号。次に建物の入口と脇道を確かめる。


 それから、最後に上を見た。


 青い空が、建物と建物の間を埋めていた。


「あ」


「何だ」


「今日もある」


 養父が呆れた顔をする。


「毎日ある」


 彼は歩きながら何度も上を見た。


 最初に地上へ出た日にも見た。昨日も見た。それでも、そのときは人の手や首を見て、逃げ道を数え、薬を背負い、帰れる入口を探していた。


 空はずっとそこにあったのに、見る余裕がなかった。


 今日は薬箱がない。追跡の通知もない。


 だから初めて、その広さが邪魔なく目に入る。


「どこまであるの?」


「空が?」


「うん」


「知らん」


「地上に住んでたのに?」


「お前、三番線の配管を一本残らず知ってるか」


「だいたいは」


「一本残らず」


「……知らない」


「住んでたら全部知ってると思うな」


 雲がゆっくり形を変えながら流れている。


「天井ないのに、何で上が落ちてこないの」


「上って何だ」


「上だよ」


「空は天井じゃない」


「じゃあ何が支えてる?」


「何も支えてない」


 意味が分からず、しばらく黙った。


 漏水区画の真上は、広い工事用地になっていた。資材が積まれ、掘り返された土の向こうに低いフェンスが見える。地下なら通路の両側に壁がある距離なのに、ここでは何十歩先まで何もない。


「こんなに空けて大丈夫なの?」


「何が」


「壁」


「フェンスなら向こうだ」


「遠すぎる」


 風が草の上を走った。


 緑が一斉に伏せ、遅れて彼の服が鳴る。反射的に腰を落としかけたが、途中で止めた。


 何も来ない。


「風か」


「昨日も吹いてただろ」


「地上って、何も壊れてないのに勝手に動くもの多すぎない?」


「お前の基準が地下なんだよ」


 養父が排水溝へしゃがみ込む。


 地上工事の仮排水管が、古い換気路の近くまで延びていた。雨水と工事排水が地下へ入り込み、水没した連絡路へ流れているらしい。


「ここ止めればいい?」


「勝手に止めたら工事側が困る。向こうの管理へ話を通す」


「地上の人に、地下の道のために直してもらうの?」


「排水で既存設備を水没させてるなら交渉はできる」


「敵なのに?」


 養父が工具袋から測定器を出す手を止めた。


「昨日から、その言葉で全部済ませようとするな」


「でも昔、ここを取ったんだろ」


「昔のことと、この排水を直すかは別の話だ」


「別にできる?」


「できないこともある。分けないと生活できないこともある」


 排水は地上から地下へ流れている。


 昨日は、その水のせいで帰路を一つ失った。今日、その原因を地上側へ伝えて直してもらおうとしている。


 敵なら壊す側で、味方なら直す側だと思っていた。


 目の前の管は、その分け方を簡単にしてくれなかった。


 養父が立ち上がる。


「外回りは終わり。管理番号も控えた」


「父さん」


「何だ」


「昔、地上に住んでたんだよな」


「ああ」


「何歳まで?」


「お前くらい」


「それから地下?」


「そうだ」


「追われたから?」


 養父は測定器をしまいながら、少しだけ返事を遅らせた。


「それだけじゃない」


「じゃあ何」


「長い」


「また今度ってやつ?」


「今は仕事中だ」


「逃げてる」


「半分はな」


「半分?」


「残りは、本当に長い」


 思わず笑った。


「じゃあ帰ったら聞く」


「覚えてたらな」


「絶対覚えてる」


「なら聞くだろ」


 そのとき、視界の端が急に白くなった。


 雲の切れ目から光が落ちている。


 彼は何気なく、その中心を見た。


「うわっ」


 養父の掌が額を押し下げる。


「太陽を直に見るな!」


「先に言えよ!」


 目を閉じても白い残像が残る。


「普通は知ってる」


「普通じゃないんだよ、こっちは!」


 言葉が強く出た。


 養父は一瞬黙る。


「……そうだったな」


 それだけ言って歩き出した。


 彼は涙の滲んだ目を何度も瞬かせ、その背中を追った。


 地上では、見上げることにまで注意事項がある。


 帰路へ向かい始めてしばらくすると、腕に冷たいものが当たった。


 水滴だった。


 次は頬。その次は肩。


「また漏水?」


「ここ地上だぞ」


 養父が空を見る。


 細かな水滴が舗装を濃く染め始めた。


「雨だ」


「これが?」


 答えを待つ間にも粒が増える。


「どこから出てる?」


「雲」


「止める場所は?」


「ない」


「元栓は?」


「ない!」


 雨脚が一気に強くなった。


 養父が走り出す。


「こっち!」


「何で逃げるんだよ、水だろ!」


「工具を濡らすな!」


「あっ」


 彼は工具袋を胸へ抱え、追いかけた。


 地下の漏水なら、まず天井を見る。配管、継ぎ目、亀裂。水が出る場所を見つけて、元を閉じる。


 雨にはそれがない。


 上から落ち、風で横から叩きつけ、走っても追ってくる。


「本当に元栓ないの!?」


「あるなら空まで登って閉めてこい!」


「無茶言うな!」


 叫びながら、笑ってしまった。


 養父も前を走りながら笑っている。


 二人で屋根の下へ飛び込んだころには、肩も髪も濡れていた。


「最悪」


「楽しそうだったぞ」


「顔で決めるな」


 足元へ雨水が流れ込み、小さな水たまりを作る。


 彼はしゃがんで指を入れた。


「普通の水?」


「飲むなよ」


「飲まない」


「舐めるな」


「やらないって」


 指先から水滴が落ちる。


 何も壊れていない。


 誰も修理しない。


 それなのに空から水が落ちてきて、しばらくすれば勝手に止むという。


 理解しにくい。


 けれど、嫌ではなかった。


 雨は本当に止んだ。


 屋根から出たころには、西の空が赤くなっていた。青かった場所へ橙と赤が広がり、雲の縁まで光っている。


「火事じゃないよな?」


「夕焼けだ」


「朝は青かった」


「毎日変わる」


「壊れてないのに?」


「壊れてない」


 彼は濡れた靴で歩きながら、空を見た。


「色が変わる。水が落ちる。光は強すぎる。雲は勝手に動く」


「それがどうした」


「地下なら全部、故障だろ」


 養父は少し笑った。


「地下じゃないからな」


 その一言が残った。


 地下では、変化には原因があり、原因を見つければ直せることが多い。


 地上では、直す必要のない変化まで世界の側からやってくる。


 三番線へ戻り、重い扉を閉める。


 風が消えた。雨の匂いも薄れ、代わりに油と金属と夕食の匂いが戻ってくる。


 頭上には照明と配管。両側にはコンクリートの壁。


 身体から力が抜けた。


 ここなら、水が落ちれば漏水だ。暗ければ電気を疑う。寒ければ熱源を調べる。道は壁に挟まれ、上には天井がある。


 安心する。


 嫌いになったわけではない。


 彼は数歩進み、ふと足を止めた。


「どうした」


 養父が振り返る。


「別に」


 いつもの天井を見上げる。


 昨日まで、これが世界の高さだった。


 今も落ち着く。


 ただ、朝よりさらに近く見えた。


 彼は無意識に少しだけ首をすくめていた。

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