第11話 占領地
診療所の薬棚には、もう隙間がなかった。
彼は地上から持ち帰った箱を両腕で抱えたまま、棚の前で立ち尽くした。
「足りないって言ってたじゃん」
「薬が足りないのと、棚が余ってるのは別の話だ」
医療担当が既存の箱を横へ押す。数センチ空いたが、彼の箱は入らない。
「床は?」
「蹴る奴がいる」
「棚の上」
「落とす奴がいる」
「じゃあ俺が棚を増やす」
「仕事を増やすな」
奥では、昨日の子供が母親に付き添われて薬を飲んでいた。まだ顔色は悪い。それでも、最初に見たときより背筋を起こして座っている。
「効いてる?」
「すぐ治す薬じゃない。ただ、使える」
医療担当は古い包帯の箱を別の場所へ移し、ようやく一段を空けた。
「ほら。そこ」
彼は薬箱を収める。
「地上の連中に礼でも言っとけ」
「誰に?」
「作った奴」
「知らない」
「じゃあ次に会った地上の奴へ適当に」
「それ、絶対違うだろ」
医療担当が笑った。
地上から来た薬が、地下の棚に収まっている。
昨日までなら、それを変だと思う理由をすぐ説明できたはずだった。今は、変だという感覚だけが残って、理由の方がうまく一つにまとまらない。
診療所を出たあと、彼は記録室へ向かった。
机に二枚の地図を広げる。
一枚は、地下で長く使われてきた古い地図。もう一枚は昨日の帰路で使った現在の道路図だった。
赤鉛筆を持ち、実際に歩いた場所を現在図へ書き込んでいく。
公園。駅前。辛いパンを買った店。西側入口。
古い方にも同じ位置を探す。
公園の場所には建物があり、駅は形が違う。西側入口は現在図では設備区画だが、古い図では避難路として線が延びていた。
「何してる」
養父が入ってきた。
「昨日の道を合わせてる」
「報告ならもう出したぞ」
「俺のだから」
「何のためだ」
「分からない」
「分からないのにやってるのか」
彼は鉛筆を止めなかった。
「分からないからやってる」
養父が少し黙った。
「珍しいな」
「何が」
「前は、答えを決めてから証拠を探してた」
「……うるさい」
古い地図の街区を赤で囲む。
「ここ、昔は人間の街だったんだよな」
「そうだ」
「取られた」
「時期による」
「占領された」
「そう呼んだ時期もある」
彼は現在図を古い地図の上へ重ねた。紙の大きさも縮尺も違う。角を合わせれば道路がずれ、駅を合わせれば川がずれる。
「じゃあ、ここ全部いまも占領地だろ」
「そう思うなら、そう書けばいい」
「父さんは違うと思う?」
「私に決めさせるな」
「知ってるんだろ」
「知ってることが増えるほど、一語で決めにくくなることもある」
「面倒くさい」
「そうだな」
彼は紙をずらした。
赤く囲んだ区域の中へ、昨日ボールを投げ返した公園が入る。研究棟も、住宅も、駅も、辛いパンを売っていた店も入る。
占領地。
その言葉を地図へ書こうとして、鉛筆の先が止まった。
間違っているとは思わない。
ただ、公園で「ありがとう」と言った子供まで、その四文字の中へ押し込むには、赤い線が少し太すぎる気がした。
昼休み、友人が隣へ座った。
「地上どうだった?」
「普通だった」
「普通って何。異形だらけじゃなかったの?」
「いるよ。でも、普通に飯食って、電車乗って、公園で遊んでた」
「敵は?」
「いたと思う」
「戦った?」
「戦ってない」
「じゃあ何したの」
彼は昨日の半透明の男を思い出した。
「隣でパン食ってた」
友人が吹き出した。
「何それ。占領地なんだろ?」
「だから俺も分かんないんだって」
「空は?」
「でかい。あと危ない」
「危ない?」
「太陽見ると目が痛いし、急に水が落ちてくる」
「地上、壊れてるじゃん」
「壊れてないらしい」
「変なの」
「変だよ」
そこで友人が掌を差し出した。
「ネジ」
彼は固まった。
「……忘れた」
「二回目!」
「雨が降ったんだよ!」
「雨とネジ関係ないだろ!」
「空から水落ちてきたらネジどころじゃない!」
「次は絶対だからな!」
「分かったって!」
二人で笑ったあと、友人がふいに聞いた。
「で、占領してる奴らって、どんな顔?」
笑いが止まった。
三本腕の男。研究棟の老人。半透明の男。公園の子供。雨の中を傘で走っていた人たち。
どれを出せば、「占領している奴」の顔になるのか。
「……いろいろ」
「分かんない」
「俺も」
口にしてから気づいた。
分からない、と言うことが以前ほど負けに感じなくなっている。
夕方、管理室へ呼ばれた。
卓上には第9話の帰路図が広げられ、訓練担当の男が腕を組んで待っていた。
「旧系統を勝手に開いた件だ」
「はい」
「確認が入り、予定経路を変更した」
「はい」
「薬は全部戻した。指定記録も戻した。怪我人なし」
「……はい」
「なら、その件で同じ説教はしない」
彼は椅子へ座りかけた姿勢で止まる。
「怒らないの?」
「反省してる奴へ同じ話を何度もするほど暇じゃない。次の話だ」
男が西側入口を指した。
「ここは当面、主経路から外す」
「開いたのに?」
「一度使えたことと、使い続けて安全なことは別だ」
昨日、水に沈んでいた連絡路が頭に浮かぶ。
「じゃあ別の出口を探す?」
「候補はある」
男が古い地図を出す。
一本の保守路が地上近くまで延びている。彼は横にあった現在図を自分から引き寄せ、位置を合わせた。
「こっちだと道路だ」
「そうだ」
「古い方には通路がある」
「そうだ」
「どっちが正しい?」
「見に行く」
養父と同じ答えだった。
彼は思わず笑った。
「何だ」
「みんなそれ言うなと思って」
「地図に現地を合わせるな。現地に地図を合わせろ」
男は二枚を彼へ差し出した。
「明朝、お前も来い」
「俺が持つの?」
「昨日、二枚必要だと分かったんだろ」
受け取る。
二枚合わせても、薬箱よりずっと軽い。
「軽い」
「重さで決めるな」
その言葉を聞いて、彼は第8話で回収箱へ落とした資料を思い出した。
軽いものにも、持つ理由と捨てる理由がある。
今度の二枚には、持つ理由があった。
夜、大扉の前を通ると、彼は足を止めた。
祭りの飾りはもうない。鉄板には古い傷が残り、そのそばに、帰ってこなかった者たちの名前が刻まれている。
指で一つをなぞる。
地上の公園が浮かんだ。
ボールを拾って投げ返した。ただそれだけの子供。
この名前があることと、あの子供があそこで暮らしていることは、どちらも消えない。
地上は奪われた。だから今いる者は敵だ、とすれば簡単だった。
今は普通に暮らしている。だから昔のことは終わった、としても簡単だった。
鉄板の傷に指先が引っかかる。
どちらも、削れば平らになる話だった。
けれど、この傷は削られていない。
「何してる」
養父の声が後ろからした。
「占領地って、何?」
「急だな」
「地上。俺はそう教わった」
「そうだな」
「父さんも?」
「昔はそう呼んだ」
「今は?」
養父は彼の指先ではなく、扉に刻まれた名前を見た。
「一言で済ませなくなった」
「ずるい」
「歳を取ると便利なんだ」
「答えてない」
「答えを一個にすると、こっちの名前か、地上で暮らしてる誰かのどっちかを雑に扱うことになる」
彼は大扉を見る。
「じゃあ、どうすればいい」
「知らん。自分で面倒くさくなれ」
「何だよそれ」
「明日早いぞ」
養父は先へ行った。
彼はもう一度だけ傷へ触れ、それから手を離した。
翌朝、工具袋へレンチを一本入れた。水筒も入れる。
机には二枚の地図がある。
古い方だけなら、失った街がよく分かる。
新しい方だけなら、今歩ける街がよく分かる。
彼は二枚とも畳んで鞄へ入れた。
訓練担当の男と合流し、大扉でも西側入口でもない古い保守路へ入る。
「遅い」
「時間前だろ」
「私より遅い」
「それ遅刻って言わないから」
歩きながら二枚を取り出す。
古い地図には通路があり、現在図にはない。少し先では逆に、現在図の道路が古い方では壁を横切っている。
「これ、一枚にできないの?」
「できる」
「じゃあ作ればいいじゃん」
「作った瞬間から古くなる」
「最悪」
角を曲がると階段があり、上から白い光が落ちていた。
彼は立ち止まり、二枚を重ねる。
紙の端は合わない。線も完全には重ならない。
それでも、一か所だけ古い保守路と現在の道路が近づいていた。
「ここ」
男が戻ってくる。
「何がある」
「分からない。でも、両方近い」
「なら候補だ」
「行ける?」
彼は聞いてから、自分で少し笑った。
「いや。見に行けば分かるか」
「そういうことだ」
二枚を畳む。
片方だけを置いていく気にはならなかった。
失った街の地図と、いま誰かが暮らしている街の地図。
その両方を鞄へ入れて、彼は地上へ続く階段を上った。




