第12話 PANDEMONIUM BURGER
地上へ出ると、彼はまず空を見た。
「ある」
先を歩きかけた訓練担当の男が振り返る。
「何が」
「空」
「昨日もあった」
「確認」
「なくならん」
「道はなくなっただろ」
「空と道を一緒にするな」
彼は笑いながら、鞄から二枚の地図を出した。
一枚は、地下で使われてきた古い地図。もう一枚は、地上の現在図。第11話で重ねても線が合わなかった二枚を、今日は現物と照らし合わせるために持ってきた。
古い地図では通路が伸び、新しい地図では道路が走っている。その場所へ実際に立つと、建物の間に細い路地があった。
「どれが正しい?」
「目の前」
「じゃあ地図いらないじゃん」
「そこまで来るのに使っただろ」
「じゃあ全部いる」
「全部はいらん。今日は二枚ともいる」
昨日までなら、そこで何を捨てるかの話になった気がする。
今日は違った。
二枚とも必要で、それでも最後に確かめるのは自分の目だった。
候補の入口は路地の奥に残っていた。ただ、知らなければ入口とは思わない。建物と建物の隙間に金属扉が一枚あり、現在図では設備区画、古い地図では避難通路として記されている。
男が扉脇の管理番号と地図を照合した。
「合ってる」
「開く?」
「今日は外から確認だけだ」
「何で」
「管理局との調整前に勝手に開けたら、また誰かさんの二の舞だ」
「一回だけだろ」
「一回で閉鎖を一つ増やした奴が言うな」
「水と壁は俺じゃない」
「だから一つと言った」
言い返す材料がなくなった。
「……分かってる」
男はそれ以上責めず、現在図へ確認済みの印をつけた。
「これで終わり。帰るぞ」
「待って」
「今度は何だ」
彼は古い地図の隅にある小さな四角を見ていた。脇に《PB》と記されている。
「これ何」
「知らん。略称だろ」
「今の地図だと……」
同じ場所を指で探す。
建物がある。
そして、名前が書かれていた。
「PANDEMONIUM BURGER」
「飲食店だな」
「古い方にもある」
「《PB》がそれならな」
「場所、同じだぞ」
「そうだな」
彼は二枚を重ねようとして、途中でやめた。紙の端も縮尺も合わない。それでも、指で押さえた一点だけはほとんど同じ場所だった。
「この古い地図、いつの?」
「かなり前だ」
「じゃあ、この店ずっと残ってる?」
「それは分からん」
「行けば?」
男が嫌な顔をした。
「分かるのは、今そこに何があるかだけだ」
「それでいい。近い」
「帰還までが任務だ」
「五分」
「駄目」
「十分」
「増やすな」
「じゃあ五分」
「最初に戻っただけだろ」
男は地図と彼の顔を交互に見て、ため息をついた。
「飯は食えるか」
「食える」
「なら行く」
「そっちが行きたいんじゃん」
「腹が減った」
先に路地を曲がったのは男だった。
看板はすぐに見つかった。
PANDEMONIUM BURGER。
彼は歩道の途中で止まり、古い地図、現在図、目の前の看板を順番に見た。
「本当にある」
「看板はな」
「名前も同じ」
「《PB》がこの店ならな」
「まだ疑う?」
「確かめてないものを勝手に確定するな」
ガラスの向こうでは客が食事をしていた。店員がトレーを運び、子供がポテトを落として母親に拾うなと止められている。
廃墟でも記念館でもない。
今日の昼飯を食べる人間がいる店だった。
扉を開けると、小さな音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
若い女の店員がこちらを見る。
彼の足が一瞬止まった。
腕は二本。顔にも首にも、見える範囲では何もない。
「二名様ですか?」
「店内で」
男が答える。
彼は店員を見たまま、小声で言った。
「人間?」
「聞くな」
「旧人類かもしれない」
「初対面で確認することじゃない」
「じゃあどうやって分かる」
「分からなくて困るか?」
困る、と答えかけた。
研究棟の老人、公園の子供、辛いパンを食べていた半透明の男が順に浮かぶ。
「……前よりは困らない」
「なら座れ」
案内された席から店内を見渡すと、余計に分からなくなった。
普通の人間に見える男の隣には、首筋に硬い鱗のある老人がいる。身体の脇に細い器官を持つ女と、見た目には何も分からない子供が同じテーブルを囲んでいた。
「それ私の!」
「一本だけ!」
「三本目!」
「数えてたの?」
子供がポテトを奪い、女に手を叩かれる。
彼はつい見続けた。
「見るな」
「観察」
「それを世間では見るって言う」
メニューを渡される。
写真には、焼いた肉と野菜をパンで挟んだものが並んでいた。
「これがバーガー?」
「そう」
「地下でも似たの作る」
「パンで挟めば大体そうなる」
彼は膝の上で古い地図を開いた。
「ここが昔から店だったなら、昔のこと知ってる人いるかな」
「何十年同じ店員が働いてる想定だ」
「記録とか」
「飯食ってからにしろ」
「聞くだけ」
「注文が先」
また、順番だった。
知りたいことがあるからといって、目の前の全部を飛ばしていいわけではない。
彼はメニューを見直し、赤いソースのバーガーを指した。
「これ」
「辛いやつだぞ」
「昨日も辛いの食べた」
「懲りてないのか」
「今日は分かって食う」
カウンターへ行くと、さっきの店員が注文を受けた。
「セットにされますか?」
「セット?」
「ポテトとドリンクが付きます」
「いる」
「ドリンクはこちらからお選びください」
知らない名前が並んでいる。
「これ」
「炭酸ですが大丈夫ですか?」
「炭酸?」
「しゅわしゅわする飲み物です」
「それ」
「サイズは?」
「普通」
「Mですね」
「普通がM?」
店員が笑った。
「一番よく出るのはMです」
「じゃあM」
注文が終わる直前、彼はカウンターから離れなかった。
「あと聞いていい?」
「はい」
「この店、いつからあるの」
店員が瞬いた。
「いつから……」
奥へ顔を向ける。
「店長、この店っていつからあります?」
「創業? 知らん!」
奥から即答が返った。
彼は思わず身を乗り出す。
「店長なのに?」
「私も二年目なので、詳しくは分からなくて。古い店とは聞いてます」
「昔の記録は?」
「事務所なら何かあるかもしれませんけど」
「見せてもらえる?」
「駄目です」
「写真だけ」
「駄目です」
「昔のメニューでも」
「今のメニューならお渡しできます」
奥から店長の声が飛んだ。
「客に事務所のもの見せるなよ!」
「見せません!」
「あるって言ったじゃん」
「あるかも、です!」
番号札を渡され、半ば追い払われるように席へ戻った。
「駄目だった」
「当たり前だ」
「でも、何かあるかもしれない」
「店の記録がな」
「昔の地上の記録でもある」
「姉探しに使えるか?」
すぐには答えられなかった。
「分からない」
「軍事情報は?」
「たぶんない」
「じゃあ必要か?」
第8話なら、持てるかどうかで考えていた。
けれど、記録はまだ自分の手にすらない。
「必要かどうかも、まだ分からない」
「なら?」
「次に聞く」
男が少し笑った。
「諦めないんだな」
「勝手に持って帰るのとは違うだろ」
「屁理屈は上手くなった」
番号を呼ばれた。
運ばれてきたバーガーは、写真より厚かった。
両手で持つと、パンの間から赤いソースが指へ垂れる。
「崩れる」
「押さえて食え」
「どこ押さえるんだよ」
「全部」
言われた通りにして、大きくかじった。
舌が焼けた。
「辛っ!」
「知ってただろ」
「昨日より辛い!」
「店が違う」
「水!」
「炭酸」
「あ」
もう遅かった。
カップを傾けると、冷たい液体が口の中で一斉に弾けた。
彼はむせてカップを離した。
「何これ!」
「炭酸」
「攻撃だろ!」
隣の席の子供が笑い、訓練担当の男まで肩を揺らしている。
「店員が説明しただろ」
「しゅわしゅわってこれ!?」
舌がまだ痛い。口の中も弾ける。
それでも、少し待ってからもう一口だけ飲んだ。
今度は量を減らす。
弾けた。
さっきほど驚かない。
「……変」
「嫌い?」
彼はカップを見た。
「まだ分からない」
「最近そればっかだな」
「悪い?」
「いや。前よりましだ」
食べ進めていると、一人の客が入ってきた。
顔の一部に、人間にはない構造がある。
共生人。
たぶん。
客がカウンターへ行くと、店員が先に声をかけた。
「いつものですか?」
「今日は違うの。辛いやつ」
「結構辛いですよ」
「大丈夫」
「昨日もそれ言って泣いてましたよ」
「あれは別の!」
二人が笑う。
彼はバーガーを持ったまま、そのやり取りを見ていた。
「知り合い?」
「常連なんだろ」
「人間の店員と?」
「人間かは聞いてないだろ」
「あ」
そうだった。
人間に見えただけだった。
旧人類かもしれない。共生人かもしれない。自分が知らない別の呼び方があるのかもしれない。
店員は客の種類を確かめず、客も店員の種類を確かめない。
代わりに、昨日どれだけ辛さに負けたかを覚えている。
彼は手元のバーガーを見た。
古い地図にも、この場所がある。
現在図にも、この店がある。
けれど、地図には今の会話までは載っていない。
「変だ」
「何が」
「ここ」
「味?」
「違う」
うまく説明できなかった。
食べ終えて外へ出ると、男が時計を見た。
「五分はとっくに超えた」
「飯食ったから」
「誰が寄ると言った」
「そっちも食っただろ」
「私は飯のためだ」
「俺は記録」
「バーガーは?」
「ついで」
「炭酸、二回飲んでたぞ」
「確認」
「何を」
「攻撃かどうか」
「結論は?」
「飲み物」
「よかったな」
男が歩き出す。
彼はその場に残り、もう一度店を振り返った。
PANDEMONIUM BURGER。
古い地図には《PB》。現在図には今の名前。そして目の前では、客が扉を開けて中へ入っていく。
「また来る」
男が数歩先で止まった。
「記録を見せてもらうため?」
「それも。でも、聞く」
「誰に」
「店員。店長。昔から来てる客がいたら、その人にも」
「迷惑にならない範囲にしろ」
「分かってる」
古い店と今の店が本当に同じものなのかは分からない。
姉がここへ来たことがあるのかも分からない。
この店が、地上で起きたことをどこまで覚えているのかも分からない。
分からないことばかりだった。
それでも今度は、分からないから全部持ち帰ろうとは思わなかった。
次に来て、一つずつ聞けばいい。
扉が開く。
「いらっしゃいませ」
新しい客が入っていく。
彼は鞄から二枚の地図を出し、店の位置をそれぞれ指で押さえた。
失った街の地図にもある。
いま誰かが暮らしている街の地図にもある。
その間に何があったのかだけが、まだ空いている。
彼は二枚を畳んで鞄へ戻した。
「行くぞ」
「今行く」
男を追って歩き出す。
角を曲がる直前、店の扉がもう一度開いた。
振り返らなかった。
次は、自分で戻ってくればいい。




