第13話 注文
「それ、使えません」
店員の言葉に、彼は差し出した手を止めた。
掌には薄い金属片が三枚載っている。三番線なら、これで昼飯が食える。昨日も同じものを持ってこの店へ来た。
「昨日、使えた」
「昨日はご一緒の方がお支払いされてます」
「俺も出した」
「受け取ってません」
「何で」
「こちらでは使えないので」
PANDEMONIUM BURGERのカウンター。昨日と同じ店で、焼けた肉と油の匂いも変わらない。
違うのは、隣に訓練担当の男がいないことだった。
第12話で「次は自分で戻ってくればいい」と思った通り、今日は一人で来た。古い店のことを聞く。そのついでに、昨日とは違うバーガーも食べるつもりだった。
入口までは一人で来られた。
注文は、一人では通らなかった。
「じゃあ、これ何」
金属片を一枚つまみ上げる。
「私に聞かれても……」
「金」
「そちらでは、たぶん」
「ここでは?」
「使えません」
「金なのに?」
店員が困った顔をした。
「通貨が違うんだと思います」
「同じ街だろ」
「同じ街……なんですか?」
「下」
「地下ですか?」
「三番線」
「駅の?」
「違う。住んでる方」
今度は店員が黙った。
彼は少し待った。
以前なら、分からない顔をされると腹が立った。今日は向こうも同じなのだと分かる。
「とにかく、こちらで使える決済手段が必要です」
「けっさい」
「お金を払う方法です」
「だから、これ」
もう一度金属片を差し出す。
「それ以外でお願いします」
「ない」
「では、ご注文をお受けできません」
話が一周して戻ってきた。
「待って。交換すればいい?」
「当店ではできません」
「店長なら?」
「店長でもできません」
奥から声が飛んだ。
「できないぞー」
「聞いてるじゃん」
「聞こえたから!」
彼はカウンターへ身を乗り出した。
「昨日の記録の話も聞きたい」
「先にお支払いの問題をどうにかしてください」
「記録を聞くのにも金いる?」
「そういう話ではなくて……」
店員の視線が彼の肩越しへ移った。
「後ろのお客様がお待ちです」
振り返る。
三人並んでいた。
いつからいたのか分からない。作業着の女、その後ろに制服姿の少年、さらに杖をついた老人。女の耳の後ろには透明な薄い膜があり、老人は見た目だけなら人間だった。
「あ、ごめん」
彼は反射的に横へ退いた。
それだけでは足りず、トレーを持って通ろうとした別の店員に肩がぶつかりそうになり、さらに壁際まで下がる。
「すみません」
「大丈夫です」
自分が退いた場所へ、作業着の女が立った。
「いつもの」
「セットですか?」
「今日は単品。あとコーヒー」
「ホットで?」
「うん」
女が端末へ手首を近づける。短い音がして、表示が切り替わった。
《決済完了》
数秒だった。
次の少年は大きなポテトだけを頼み、端末へ何かをかざした。
「昼ご飯それだけ?」
「あとで食べる」
「昨日も言ってましたよ」
「今日はほんと」
また音が鳴る。
《決済完了》
杖の老人はカウンターへ着く前から店員に笑われた。
「いつもの塩なしですね」
「今日は塩あり」
「先生に怒られますよ」
「今日だけ」
「一昨日も聞きました」
「細かいなあ」
老人も支払いを済ませ、席へ向かう。
誰も自分が何者か説明しなかった。店員も聞かなかった。
注文し、払って、食べる。
その流れの中へ、自分だけ入れない。
「次の方どうぞ」
入口からまた客が入ってきた。
彼は壁際へもう半歩寄った。
掌の金属片が急に重く感じた。
店の隅へ移動すると、腹が鳴りそうになった。
肉の焼ける匂い、温められたパン、油、それに昨日食べた辛いソース。厨房から流れてくる匂いだけは、通貨の違いを気にせず鼻へ入ってくる。
手の中の金属片を見る。
三番線では使える。
ここでは使えない。
昨日の二枚の地図を思い出した。道として描かれていても、実際には通れない場所があった。
「同じじゃん」
「何がですか?」
隣から声がして顔を上げる。
さっきの作業着の女が、注文を待ちながらコーヒーを飲んでいた。
「何でもない」
「そうですか」
会話はそこで終わりかけた。
彼は掌を開いた。
「これ、金に見える?」
「何です、それ」
「金」
「初めて見ました」
「地下の」
「ああ。交換券とか?」
「交換券じゃない。金」
「じゃあ、こっちじゃ換えられないかも」
「どこなら換えられる?」
「さあ。役所か銀行じゃないですか」
「どこ」
「場所ですか? 端末で調べれば出ますよ」
「持ってない」
「端末を?」
「うん」
女は少しだけ目を丸くした。
「珍しいですね」
「地下だといらない」
「へえ」
それだけだった。
もっと驚かれると思っていた。地下について質問されるかもしれないとも思った。
女は番号を呼ばれるとバーガーを受け取り、「じゃ」と片手を上げて去っていった。
残ったのは、交換場所の候補だけだった。
それでも、さっきより一つ増えた。
「まだいたんですか」
最初の店員が空いたトレーを持って通りかかった。
「金がない」
「ありますよね」
「使えない」
「そうですね」
「どうすればいい」
「今日は食べない」
「それ以外」
「交換できる場所を探す」
「それ以外」
「誰かに借りる」
「知らない」
「では、今日は食べない」
店員が行きかける。
「そればっか」
「一番簡単なので」
帰る。
三番線へ戻れば、この金属片で食事ができる。わざわざここで腹を空かせている理由はない。
けれど昨日、聞けなかったことがある。
古い記録。この店の昔。姉につながる何かが残っている可能性。
腹が鳴った。
思ったより大きかった。
店員が振り返る。
「……聞こえました?」
「はい」
「今のなし」
「難しいですね」
「何が」
「聞かなかったことにするの」
「そこはできるだろ」
「では聞いてません」
「今答えた」
店員が笑う。
彼は腹を押さえたまま睨んだ。
「これ」
横から小さな紙が差し出された。
杖の老人だった。
「何」
「割引券」
「いらない」
「使えるぞ」
「金じゃない」
「金じゃないな」
「じゃあ、何で使える」
「この店の券だから」
さっき店員が言ったことと同じだった。
「何でくれるの」
「今日までだから」
「自分で使えば」
「塩ありにしたから使えん」
「関係ある?」
「知らん」
老人は笑って、自分の席を顎で示した。
「いらんなら置いとけ」
彼は紙と老人を交互に見た。
捨てる理由はない。
今度は、持つ理由もある。
「もらう」
「そうしろ」
割引券を握ってカウンターへ戻った。
「これ」
店員が券を見る。
「これは使えます」
「金じゃないのに?」
「この店の券なので」
「変なの」
「地下のお金を出した人に言われたくありません」
「金だって」
「こちらでは使えません」
「もう分かったよ」
券を読み取る。金額が下がった。
彼は期待して表示を見た。
数字が残っている。
「……まだある」
「割引券なので」
「全部じゃないの?」
「無料券ではありません」
「残りは?」
「お支払いください」
「ない」
「では買えません」
元に戻った。
彼はカウンターへ両手をつき、しばらく券を見たあと、笑いが漏れた。
「何で笑うんですか」
「使えるのに通れない」
「はい?」
「道と同じ」
「よく分かりません」
「俺も」
帰るしかない。
券をポケットへ入れたところで、入口の扉が開いた。
「いた」
聞き慣れた声だった。
訓練担当の男が、外の明るさを背負って立っている。
「何で」
「何でじゃない。お前が帰ってない」
「一人で帰れる」
「そういう話じゃない」
男は店内へ入り、彼の前まで来た。
「何してる」
「注文」
「見れば分かる。何で食ってない」
「金が使えない」
「昨日見ただろ」
「昨日はそっちが払った」
「気づけ」
「今日気づいた」
「遅い」
男が息を吐く。
「帰るぞ」
「まだ昔のこと聞いてない」
「腹減ってるだろ」
「減ってる」
「なら先に食え」
「だから金がない」
男が端末へ手を伸ばした。
彼はその手首をつかんだ。
「待って」
「何だ」
「借りる」
「は?」
「払って。帰ったら返す」
男が、つかまれた手首と彼の顔を順に見た。
「昨日は?」
「昨日は知らなかった」
「今日は知った?」
「俺の飯を、そっちが払ってたって」
「それで?」
「今日は俺が食べに来た。だから借りる」
手を離す。
「返す」
男はしばらく何も言わなかった。
やがて端末へ手をかざす。
《決済完了》
「いくら」
「帰ってから計算する」
「こっちの金と三番線の金、どう換えるの」
「交換比率を調べる」
「ある?」
「知らん」
「分からないのに?」
「返す気があるなら調べればいい」
彼は少し笑った。
「それでいいんだ」
「何が」
「分からなくても」
「返す気があるならな」
席へ戻ると、今度のバーガーは辛くなかった。
「赤くない」
「昨日死にそうな顔してたからな」
「死んでない」
「炭酸は?」
「水」
「学習したな」
「攻撃じゃなかったけど、飯にはいらない」
かじる。
昨日より味がよく分かった。肉の焼けた端、酸味のあるソース、柔らかいパン。辛さに舌を焼かれず、炭酸にむせなければ、同じ店でもずいぶん違う。
向こうの席では、作業着の女が端末を見ながら食べている。制服の少年は大きなポテトを一人で抱え、老人は塩のかかったポテトを一本ずつ隠すように口へ運んでいた。
店員が見つけた。
「塩あり頼みましたね!」
「今日はいいんだ」
「一昨日も聞きました!」
「今日は今日だ!」
老人が皿を腕で隠す。
彼はバーガーを持ったまま笑った。
「何」
男が聞く。
「別に」
食べ終わったら、昔のことを聞く。
店のこと。古い記録のこと。姉につながるものがあるかどうか。
その前に、今は自分の昼飯を食べる。
ポケットには、穴の開いていない割引券が残っている。
借りた金も残った。
帰れば調べることが二つになった。
店の扉が開く。
「いらっしゃいませ」
また誰かが入ってきた。
今度は振り返らなかった。
バーガーの残りを、自分の手で持って食べた。




