第88話 空の下
地下の出口を抜けた瞬間、視界の上半分を空に持っていかれた。
「でかい……」
思わず漏れた声に答える者はいない。警報に追われる人々はそれぞれの避難先へ急ぎ、主人公の横を抜けていく。彼も走り出したが、目は意識して道路へ落とした。足元、前を行く人の背中、信号、建物の入口。見る順番を決めておけば、頭上の広さを考えずに済む。
それでも、建物と建物の隙間から青が入り込んでくる。
「今はいい」
空へ言っても仕方がない。端末を取り出し、走りながら姉の位置を確かめた。
《東六から南へ移動中。子どもと合流した》
主人公はすぐに《俺も行く》と打った。送信する直前、指が止まる。
姉の子には親がいる。以前なら「自分が守る」と考える前に決めていたかもしれない。主人公は入力した文字を消し、《子どもはどうする》と送り直した。
《相手が南の広域避難所へ連れていく。私は西側の移送を手伝う》
姉の相手。少し前まで、自分にとっては姉の隣にいる知らない男に近かった。けれど、姉の子にとってはそうではない。
《分かった。任せる》
送信したあとも、指はしばらく画面の上に残った。追いかけて確認したい気持ちは消えない。それでも端末をしまう。任せると送ったなら、まず任せるしかない。
次の交差点で赤信号に捕まった。警報が鳴り続けているのに、避難中の人々は歩道の縁で止まり、車列が目の前を横切っていく。
「今でも待つの?」
隣にいた共生人が、主人公の顔を見てから道路へ顎を向けた。
「警報が鳴ってても、車に轢かれたら同じでしょ」
言われた直後、一台の配送車が速度を落としながら通過した。主人公は「あ」とだけ返し、青になった横断歩道を人の流れと一緒に渡った。
世界が壊れそうなときでも、信号は動いている。商店では店員が戸を閉め、歩道の端では倒れた自転車を誰かが起こしていた。犬は警報へ張り合うように吠え、飼い主にたしなめられてもやめない。
普通の生活が消えたわけではなかった。危機の中へ押し込まれ、形を崩しながら、それでも続いている。
端末が震えた。今度は友人だった。
《地下戻った。設備見る》
主人公は足を緩めた。《危ないだろ》と返すと、間を置かず《知ってる。ここも家だから》と来た。
地下へ戻れとは打たなかった。
友人は地下に残ることを自分で決めた。自分は地上へ出ることを決めた。行き先が違うだけで、どちらかが逃げたことにはならない。
《分かった。気をつけろ》
《そっちも》
やり取りを終え、主人公は再び速度を上げた。
風が頬を撫でるたび、上から何かが来る気がして肩が固くなる。実際には何も落ちてこない。その「まだ何も起きていない」時間が、かえって怖かった。
地下なら、異常は音や振動で近づいてくる。配管が鳴れば接続を追えるし、熱があれば流れを探せる。だが空には壁も配管もなく、どこを見れば原因に辿り着けるのかさえ分からない。
昔、養父に「空に元栓つけてこい」と無茶を言われたことを思い出した。
「無理だろ、そんなの」
走りながら口にすると、自分で少し笑ってしまった。怖さは消えない。笑ったから平気になったわけでもない。ただ、怖がったまま足を動かすことはできた。
姉の位置表示が西へずれる。主人公も角を曲がった。
《来るなって言ったでしょ》
先回りしたようなメッセージが届く。
《子どもは任せた。そっち行く》
《何しに》
答えに詰まり、速度が落ちた。姉を守る、と書くのは違う。姉は自分で動いている。状況を解決する、と書けるほど何が起きているかも分かっていない。
主人公は周囲を見た。避難者の荷物を運ぶ人がいる。足の遅い老人へ肩を貸す人もいる。西へ向かう移送車には、箱が次々と積み込まれていた。
《運ぶくらいならできる。人でも荷物でも》
少しして、《それなら助かる》と返ってきた。
役目をもらったからではない。自分にできることを自分で出して、それが向こうの必要と噛み合った。そのことが妙に嬉しく、主人公はまた走り出した。
大通りへ出たところで、建物の列が急に低くなった。
逃げ場を失った視界へ、空が一気に落ちてくる。
主人公の足が止まった。
呼吸が浅くなり、握った端末の角が掌へ食い込む。地下へ戻れば、厚い扉の向こうに知っている階段があり、壁際には水と毛布がある。配管の音も、湿った空気も、帰ってきた自分を名前で呼ぶ人たちもいる。
あそこは今でも家だ。だから戻りたいと思うこと自体を、もう否定する必要はなかった。
「……怖いな」
今度は誰に聞かせるでもなく言った。
顔を上げる。青空の奥行きは、十秒眺めても理解できなかった。好きにもならないし、安心もしない。むしろ見ているほど身体は地下の天井を欲しがった。
それでも、姉の位置を示す印は西にある。
主人公は視線を道路へ戻し、固まっていた膝を伸ばした。
数歩進んだところで友人から《そっちどう》と届く。
《空でかい。怖い》
返事は短かった。
《知ってる》
主人公は笑った。《そっちは》と送ると、《天井ある。落ち着く》と返ってくる。
《それも知ってる》
端末をしまった。
空が怖いことも、地下の天井に安心することも、どちらかを捨てなければ地上へ出られないわけではない。
警報の向こうに、西へ向かう移送車の列が見え始めた。主人公はその列へ向けて走る。
頭上には相変わらず、元栓のない空が広がっていた。




