第87話 家族んとこ
《旧人類避難》
矢印は地下を指していた。
「行って」
姉が言った。
「何で」
「入れるんでしょ」
「姉ちゃんは」
「別探す」
「一緒に」
「入れない」
「じゃあ俺も」
「それ、今決める?」
主人公は口を閉じた。
警報が鳴っている。
人が横を走っていく。
姉がもう一度言った。
「安全なとこ行って」
「姉ちゃんも」
「行く」
「どこ」
「だから探す」
「子どもは」
「相手といる」
「安全?」
「分からない」
胸が速くなる。
「じゃあ」
「まず自分」
「でも」
「あんたまで危ないと、私が増える」
「何が」
「心配する人数」
言葉が出なかった。
姉が主人公の背中を押す。
「行って」
地下への階段を降りた。
一段。
二段。
三段。
警報が少し遠くなる。
もう一段。
空気が変わった。
冷たい。
湿っている。
息を吐く。
楽だった。
足が勝手に速くなる。
知っている段差。
知っている壁。
知っている匂い。
大扉が開いている。
「次!」
訓練担当の男が人を中へ通していた。
主人公を見る。
「お前か」
「うん」
「怪我」
「ない」
「入れ」
それだけだった。
カードはいらない。
名前を知っている。
顔を知っている。
ここでは、自分が何者か説明しなくていい。
中へ入る。
毛布。
水。
薬。
人。
旧人類。
「おかえり」
女に声をかけられた。
昔から朝飯を運んでいた人だった。
「ただいま」
考える前に出た。
「座りな」
「うん」
壁際へ座った。
背中をつける。
硬い。
知っている硬さだった。
手の震えが少しずつ止まる。
警報は遠い。
ここから空は見えない。
目を閉じる。
安全だった。
ここは家だった。
「よかった」
誰かが言った。
「間に合った」
「まだ来るぞ」
「奥詰めろ」
人が動く。
主人公は動かなかった。
今は、それでよかった。
端末が鳴った。
姉。
《子どもと合流した》
息を吐く。
《そっちは》
《地下》
すぐ返ってきた。
《よかった》
主人公は画面を見た。
よかった。
そうだ。
よかった。
ここは安全だ。
姉と、子どもと、その相手は別の場所にいる。
《どこ》
《東側の公共避難所》
地図を開く。
遠い。
《安全?》
《今は》
今は。
主人公は厚い壁を見た。
ここなら、その言葉を使わなくていい気がした。
端末を伏せる。
一分。
二分。
三分。
呼吸が遅くなる。
震えも消えた。
ここにいれば助かる。
たぶん。
「水」
訓練担当の男が一本差し出した。
「ありがとう」
「友人は」
「地下」
「どこ」
「設備見てる」
「馬鹿か」
「うん」
「お前は座ってろ」
「うん」
水を飲んだ。
冷たい。
うまい。
奥に、強硬な男がいた。
目が合う。
「戻ったか」
「うん」
「ここなら残せる」
主人公は返事をしなかった。
男は近くにいた子どもへ毛布を渡した。
地下の旧人類の子だった。
「寒いか」
「ちょっと」
「もう一枚いるか」
「いらない」
「いるなら言えよ」
「うん」
普通だった。
この人も、ここを守っている。
主人公はそれを見ていた。
怖い。
それも嘘ではない。
この人にとっても、ここは家だ。
自分にとっても。
だから簡単ではなかった。
端末が鳴る。
《西側も警報》
《こっちは移動する》
姉からだった。
主人公は立った。
「どこ行く」
訓練担当の男が聞く。
「姉ちゃん」
「地上へ戻るのか」
「うん」
「今?」
「うん」
「危ないぞ」
「うん」
「ここにいろ」
足が動かなかった。
身体は嫌だと言っている。
階段の上。
空。
警報。
何が起きるか分からない場所。
ここなら壁がある。
水がある。
毛布がある。
知っている人がいる。
家だ。
膝が少し曲がった。
座り直したくなる。
「無理して出る必要ない」
訓練担当が言う。
「うん」
「残るやつもいる」
「うん」
「それでいい」
「うん」
「じゃあ」
「俺は行く」
男が主人公を見る。
「何で」
大きな言葉はいらなかった。
旧人類でも。
共生人でも。
未来でも。
種でもない。
主人公は端末を握った。
「家族んとこ」
訓練担当が一度だけ頷いた。
「姉か」
「うん」
「子どもも」
「うん」
「向こうの男も?」
「……うん」
「そうか」
それ以上、止めなかった。
一歩進む。
奥から声が飛んだ。
「行くのか」
強硬な男だった。
「うん」
「ここを捨てるか」
主人公は止まった。
「捨てない」
「戻るのか」
「分かんない」
男が顔をしかめる。
「またそれか」
「うん」
主人公は周囲を見る。
毛布。
水。
子ども。
老人。
訓練担当。
朝飯を運んでくれた女。
強硬な男。
家。
「ここ、家だから」
「なら」
「家、二つある」
口にすると、少し変だった。
でも直さなかった。
「行ってくる」
女が言った。
「帰ってきな」
主人公は止まった。
「うん」
階段を上る。
一段。
身体が重い。
二段。
息が速くなる。
三段。
空気が変わる。
湿り気が減る。
警報が大きくなる。
足が止まりそうになる。
手すりを握る。
怖い。
帰りたい。
もう帰っていた。
それでも上る。
空がある。
主人公は地上へ出た。
姉はいない。
当たり前だった。
待ってはいない。
端末を開く。
《今どこ》
送る。
《移動中》
《そっちは》
主人公の指が動く。
《家族んとこ行く》
送信。
足は震えている。
そのまま走った。




