第84話 送信完了
静かだった。
主人公はまだ壁へ耳を当てていた。
「おい」
横から友人に呼ばれる。
「何」
「いつまで聞いてる」
「念のため」
「お前の念のため長いんだよ」
主人公はようやく壁から離れた。
「ほんとに止まった」
「だから言った」
「誰が」
「俺」
「研究者じゃん」
「俺も言った」
「後から」
「うるさい」
足音が近づいた。
姉だった。
「いた」
「来たの」
「待ってろって言ったの私」
「あ」
「忘れてた?」
「ちょっと」
「疲れてるね」
「疲れた」
姉が床へ座る。
主人公もその横へ座った。
友人が反対側へ腰を下ろす。
「俺も座る」
「勝手に」
「俺の家でもある」
姉が周囲を見る。
「そうだった」
「だったじゃない」
「そうだった」
「今も」
「はいはい」
誰も立たなかった。
遠くで人の声がする。
笑っている。
泣いている声も混じる。
「水!」
「ここ!」
誰かが呼び、誰かが返す。
少しずつ、普通の音が戻っていた。
養父が袋を持って現れた。
「食え」
「何」
「パン」
「また硬いやつ?」
「嫌なら食うな」
主人公は受け取った。
指で押す。
「硬い」
「言ったろ」
横から姉が半分ちぎった。
「俺の」
「半分」
「勝手に」
「家族」
「便利」
姉が食べる。
友人が手を出した。
「俺は」
「ある」
養父が別のパンを渡す。
「あるんじゃん」
四人で食べた。
警報は鳴らない。
壁も動かない。
主人公は硬いパンを噛んで、時間をかけて飲み込んだ。
「終わったな」
養父が言った。
「うん」
「まだ避難解除は待って」
姉が言う。
「今だけ」
主人公はパンを持ったまま答えた。
「終わった」
姉は少し黙った。
「うん」
それから、もう一度言った。
「終わった」
その言葉を、その場へ置いた。
誰もすぐ次へ行かなかった。
五分。
十分。
主人公は床へ寝転がった。
「寝るな」
姉が言う。
「起きてる」
「目閉じてる」
「休んでる」
「寝る人の言い方」
「五分」
「さっき十分休んだ」
「じゃあ十五分」
「増えた」
友人が笑った。
主人公も目を閉じたまま笑った。
その時間は、本当にあった。
第零号は止まった。
街は残った。
誰かが後から何を見つけても、それまで嘘になるわけではなかった。
「主人公」
研究者の声がした。
主人公は片目だけ開けた。
研究者は走ってはいなかった。
けれど歩幅がいつもより大きい。
「何」
返事はない。
研究者は端末を床へ置いた。
友人が覗き込む。
「何これ」
「停止後ログ」
「止まってる?」
「第零号本体は」
主人公は起き上がった。
「本体は?」
研究者が画面を動かす。
時刻が並んでいる。
第零号停止。
その少し前に、別の記録があった。
《外部戦略系通信》
「外部?」
姉が身を寄せる。
「地下の外」
「どこへ」
養父が聞いた。
「複数。全部は識別できない」
「何送った」
主人公が聞く。
研究者はすぐには答えなかった。
「戦略命令」
「何の」
「発射」
主人公の手の中で、パンの袋が小さく鳴った。
「発射?」
「そう読める」
「何を」
「まだ確定できない」
「止めたじゃん」
「止めた」
「じゃあ」
「送信は、その前」
主人公は画面を見る。
第零号停止より前。
確かに時刻が並んでいた。
「届いた?」
「分からない」
「取り消しは」
「第零号は停止した」
「じゃなくて、送ったやつ!」
「取り消し通信の記録はない」
友人が端末を覗く。
「外から止められる?」
「分からない」
「送信先は」
姉が聞いた。
「一部しか識別できない」
「一部は?」
「旧戦略系」
養父の顔が変わった。
主人公が気づく。
「知ってる?」
「名前だけ」
「何」
「昔の」
養父は少し言葉を探した。
「残りだ」
「何の」
「戦争の」
主人公は手の中のパンを見た。
さっきまで、終わったと思っていた。
違う。
終わったのだ。
第零号は止まった。
街を昔へ戻す動きも止まった。
あの勝ちは消えない。
ただ、止まる前に外へ出ていったものがあった。
それは、街と一緒には止まらなかった。
「もう一つ」
研究者が言った。
「まだあるの」
「ログ上」
画面に短い二行が出る。
《戦略命令送信》
《送信完了》
主人公は二行目を指した。
「完了って」
「完了」
「成功?」
「送信が」
「受信は」
「不明」
「発射は」
「不明」
「何が飛ぶ」
「不明」
「不明ばっか」
「分からないものを、分かったとは言えない」
主人公は言い返さなかった。
以前なら読めなかった名前を、今ある情報が読めるようにした。
知ったことで、知らないものまで増えた。
主人公は立ち上がった。
「どこ行くの」
姉が聞く。
「調べる」
「休んだ?」
「十五分」
「寝てない」
「目閉じた」
「それ休憩」
「休んだ」
友人も立つ。
「何調べる」
主人公は答えかけて、止まった。
自分が持ってきたもの。
研究棟から盗ったもの。
地下へ送ったもの。
もう、なかったことにはできない。
「俺が持ってきたやつ」
「どれ」
「全部」
姉が主人公を見る。
「全部?」
「俺が盗ったデータ」
養父が聞く。
「何する」
主人公は端末の《送信完了》を見る。
隠しておけば安全になる段階は、もう過ぎていた。
「今の人に渡す」
養父は何も言わない。
友人が聞く。
「どこまで」
主人公は今度は止まらなかった。
「全部」




