第79話 壊したんじゃない
壁に、人ひとりが屈んで通れる穴が開いていた。
「壊れてる」
主人公が言う。
「壊した」
友人が訂正した。
「誰が」
「知らん」
「じゃあ壊れてるじゃん」
「違う」
「何が」
友人は答えず、穴へ身体を入れた。
「来い」
「狭い」
「来い」
主人公も続いた。
後ろで姉が穴を覗く。
「私も?」
「服汚れる」
「聞いてない」
「来るなら」
「行く」
姉も入ってきた。
養父だけが残った。
「俺は行かん」
「何で」
「腰」
「昨日の老人みたい」
「誰だ」
「知らなくていい」
養父は古い図を持ち上げた。
「俺は上から言う。そこ抜けた先、昔は配管室だ」
「今は?」
友人が聞く。
「物干し」
主人公が答えた。
「何で地下に物干し」
姉が後ろから言う。
「乾燥室」
「最初からそう言って」
「みんな物干しって言う」
三人で狭い穴を抜けた。
向こうには、誰もいない部屋があった。
避難は済んでいる。
天井近くには洗濯紐だけが残り、古い太い管の横を、明らかに年代の違う細い管が走っていた。
友人がしゃがむ。
「これ」
「何」
「後付け」
「見れば分かる」
「何で付けた」
「知らん」
「水が溜まったから!」
入口から声がした。
一人の女がこちらへ歩いてくる。
「誰」
主人公が聞く。
「ここ使ってる人」
「使ってた!」
女が訂正した。
姉が細い管を示す。
「これ、誰が付けたんですか」
「私ら」
「何のために」
「雨の時、水上がるから」
「地下なのに雨?」
「地上から入るの!」
「知らなかった」
「住んでないからでしょ!」
「住んでる!」
「ここには住んでない!」
「それはそう」
友人が管を目で追った。
「どこへ逃がしてる」
「向こう」
「向こうどこ」
「古い排水」
友人が止まった。
「旧図にない」
「作ったからね」
「いつ」
「十年くらい前」
主人公が女を見る。
「勝手に?」
「水浸しで洗濯しろって?」
「いや」
「じゃあ勝手に」
姉が笑った。
「何」
「別に」
友人の端末が鳴った。
画面に二つの表示が出る。
《規格外接続》
《損傷推定》
「ほら」
主人公が画面を指した。
「壊れてる判定」
「失礼」
女が言う。
「機械が」
「機械に言って」
友人は管を軽く叩いた。
「壊れてない」
「さっき壊したって」
「壁は壊した」
「やっぱり」
「通るために」
「壊したじゃん」
「壁は」
友人は新しい管を指した。
「こっちは直した」
「そう」
女が頷く。
主人公はもう一度表示を見た。
《損傷推定》
「こいつには同じ?」
端末から研究者の声がした。
『旧モデルに存在しない変更は、正常状態として評価できない』
「いつから聞いてた」
『最初から』
「また?」
『また』
姉が端末へ顔を寄せる。
「正常じゃない、じゃなくて、知らない?」
『その表現が近い』
主人公は細い管を見た。
「じゃあ使える」
「何が」
「知らないとこ」
「昨日も言った」
友人が返す。
「今日、ほんとに知らないって分かった」
友人は端末と管を見比べた。
「これ、第零号側から制御できない」
『現時点ではそう見える』
「でも、ただの排水でしょ」
姉が言う。
「ここは」
友人が立ち上がった。
「他にもある」
「あるよ」
女が即答した。
三人が同時に見る。
「何」
「暖房」
「何が」
「昔の管だけじゃ足りないから、隣の区画から回した」
「どこ」
「こっち」
女について歩く。
また壁に穴があった。
「また壊した」
主人公が言う。
「開けた」
「同じ」
「違う」
「この会話、さっきもした」
姉が呆れた。
穴の向こうでは、古い管と新しい管が途中で組み合わされ、別の区画へ伸びていた。
「これも図にない」
友人が言う。
通信越しに養父の声が返る。
『昔は壁だ』
「今は?」
主人公が聞く。
「暖かい」
女が答えた。
主人公は黙った。
「それでいいんじゃない」
姉が言った。
友人は端末へ線を足していく。
「ここ。ここ。これも」
「いっぱいある」
「住んでたからな」
通信越しに養父が言った。
「住むために変えた」
姉が続ける。
「壊れたら直すし、不便なら足すでしょ」
女が言う。
「勝手に」
主人公がまだ引っかかっている。
「誰に許可取るの」
女に返された。
主人公は古い機械のことを思った。
「こいつ?」
「嫌」
即答だった。
主人公は笑った。
「俺も」
友人は増えた線を見ていた。
「使えるかもしれない」
「どう」
「第零号が旧系統だけで街を戻そうとしてるなら」
姉が先を読む。
「今の接続を使って、違う流れを作る?」
「できるかはまだ分からん」
「やる?」
「調べる」
「やる?」
「調べてから」
「遅い」
「死ぬよりいい」
主人公は口を開きかけて、止まった。
昨日までなら、そのまま押したかもしれない。
「……うん」
友人が主人公を見る。
「急ぐ。でも飛ばさない」
「うん」
調査を続けた。
壁の穴。
後付けの管。
継ぎ足された配線。
迂回させた排水。
塞がれた旧通路。
住民に聞けば、それぞれ理由があった。
水が来たから。
寒かったから。
子どもが通るから。
荷物が増えたから。
前のやり方では暮らせなくなったから。
第零号の表示では、それらが《損傷》《規格外》《転用》へまとめられていく。
主人公は途中から、その文字を見なくなった。
代わりに住民へ聞いた。
「これは何で?」
「暑かったから」
「これは?」
「近道」
「これは」
「それは本当に壊れた」
「壊れてるのもあるじゃん!」
「そりゃあるよ!」
姉が吹き出した。
友人まで笑った。
「何だよ」
「全部意味があると思った?」
「今そういう流れだったじゃん」
「現実はそんなに親切じゃない」
主人公は口を尖らせた。
けれど、端末の地図にはもう、古い図にはなかった線が何本も増えている。
壊れたものもある。
壊したものもある。
直したものもある。
足したものもある。
同じ《異常》ではなかった。
第零号には区別できない。
ここで暮らしてきた人には、区別できる。
主人公は最後の一本を指した。
「これ、何」
女が答えた。
「知らない」
「え」
「私が来る前からある」
養父へ通信する。
「親父」
『知らん』
友人を見る。
「記録なし」
姉を見る。
「今も使われてる」
「何に」
「そこから調べる」
主人公は頷いた。
分からないものを、古い答えで埋めない。
壊したんじゃない。
少なくとも、全部は。
ここで暮らすために、直して、足して、変えてきた。
その変化を、第零号だけが知らなかった。




