第76話 敵地
避難区画には机がなかった。
だから、箱を一つ裏返した。
その上へ、古い紙が広げられている。
「これ」
主人公が手を伸ばす。
「触るな」
研究者に止められた。
「紙だろ」
「古い紙だ。破れる」
「触らない」
友人が横から言う。
「さっき触ってた」
「今は触らない」
研究者がため息をついた。
周囲では、まだ避難した住民が動いている。薬の箱を並べ、水を数え、空いた場所へ毛布を敷いていた。
養父は少し離れたところで、保存食を配っている。
「何でこれがあった」
主人公が聞く。
「壁が開いた」
養父が答えた。
「壁から地図?」
「棚」
「棚があった?」
「昨日まで壁だったところにな」
「地下、何でも出てくるな」
友人が閉じた食堂の方を見る。
「食堂返してほしい」
「先に鍋」
養父が言った。
「鍋も?」
「一個向こうに残った」
「親父、取りに行くなよ」
「分かってる」
少し間が空いた。
「ほんと?」
「地図見ろ」
主人公は箱へ向き直った。
紙の上には街が描かれている。
古い。
けれど、知らない街ではなかった。
「駅」
主人公は指を近づけ、触れる寸前で止めた。
「今の駅と位置同じ」
「大体な」
友人が答える。
「ここ、公園?」
「今はな」
「ここ、姉ちゃんちの方」
「正確な現住所は重ねるな」
研究者が言った。
「何で」
「これは戦略図だ」
主人公の手が止まった。
「戦略?」
「都市管理図じゃない」
研究者が紙の端を示した。
褪せた文字が残っている。
《奪還対象区域》
「昨日の」
「同じ分類だ」
その下にも文字がある。
《敵占領下》
主人公は声に出した。
「……敵地」
「古い字だな」
友人が言う。
「読める」
「そうじゃなくて」
主人公は地図全体を見た。
駅。
公園。
病院。
姉の家がある辺り。
PANDEMONIUM BURGERがある辺り。
全部が同じ色で塗られている。
「全部?」
「この図では」
「何が敵」
「当時の占領主体」
「誰」
「そこは資料が欠けてる」
「今は?」
「今の住民を識別している形跡はない」
主人公は地図から顔を上げた。
「じゃあ」
「古い分類を、そのまま現在の座標へ当てている可能性が高い」
友人が眉を寄せる。
「街が変わっても?」
「座標が残れば」
「住んでる人変わっても?」
主人公が聞く。
「分類上は」
「馬鹿じゃん」
誰も答えなかった。
主人公はもう一度、地図を見た。
自分も言ったことがある。
占領地。
初めて地上へ出た頃、今の街を見て。
「……俺も言ってた」
養父が顔を上げる。
「何を」
「占領地」
養父は黙った。
「地上、最初に見た時」
友人が主人公を見る。
「今は?」
「今?」
「敵地?」
主人公は答えようとした。
姉の顔が浮かぶ。
姉の子ども。
姉の相手。
病院。
死んだ若いスタッフ。
警察官。
移行者の女。
PANDEMONIUM BURGER。
駅。
公園で見た犬。
「……街」
友人が笑う。
「雑」
「うるさい」
「重要なのは」
研究者が口を開く。
「分かってる」
「まだ言ってない」
「これが今も敵地だと思ってるってことだろ」
「機械が、な」
「同じじゃん」
「違う」
研究者は即座に否定した。
「機械がそう分類していることと、現実がそうであることは違う」
主人公は研究者を見る。
「……うん」
端末が鳴った。
姉からだった。
《こっち避難準備になった》
《家はまだ大丈夫》
主人公は返信する。
《地下も避難中》
《そっち行く》
送信した。
「行くのか」
養父が聞く。
「うん」
「地下は」
主人公は避難区画を見回した。
昨日は救助だった。
今日はもう整理が始まっている。
薬を並べる人。
水を数える人。
通れる道を伝える人。
養父から飯を受け取る人。
「ここ、みんな動けてる」
「そうだな」
「姉ちゃんとこ行く」
「行け」
主人公は古い地図をもう一度見た。
「これ持ってく?」
「駄目だ」
研究者が即答する。
「何で」
「資料だ」
「役に立つ」
「破る」
「破らない」
「写真」
友人が言った。
「あ」
「文明」
「うるさい」
主人公は端末で撮った。
古い街。
《敵占領下》
《奪還対象区域》
画像を保存して、外へ出た。
友人もついてくる。
「お前も昔、これだった?」
「何が」
「頭の地図」
主人公は歩きながら答えた。
「たぶん」
「今は?」
主人公は端末を開いた。
さっき撮った古い戦略図を閉じる。
姉から送られてきた現在の地図を開いた。
避難所。
通行止め。
病院。
給水場所。
今の街が表示されている。
「増えた」
「何が」
「地図」
「二枚?」
「もっと」
二人は歩いた。
旧戦略図の中では、街は敵地だった。
主人公の頭の中でも、昔はそうだった。
でも、地図は人が変わっても、自分では書き換わらない。
そこに暮らす人を見なければ。
話さなければ。
間違っていたと認めなければ。
古い地図は、正しかった頃の敵を、今そこに住んでいる人へ重ね続ける。
主人公は端末の現在地図を見た。
そこには敵地ではなく、姉が避難しようとしている街があった。




