第72話 第零号
「来い」
朝、友人が主人公の部屋へ顔を出した。
「また?」
「また」
「皿?」
「違う」
「研究?」
「違う」
主人公は少しだけ安心した。
「じゃあ何」
「L-04」
安心が消えた。
「何それ」
「忘れた?」
「……太いやつ」
「雑」
二人は地下の奥へ向かった。
食堂を抜け、生活区画を越える。主人公が普段歩く範囲から外れるにつれて、壁の補修跡が減っていった。新しい配線の束も細くなり、代わりに古い金属板と、意味の分からない刻印が増える。
友人が一枚の扉の前で止まった。
札には《L-04》《保守》とある。
「ここ来たことない」
「俺も途中まで」
「何で」
「鍵」
「開いた?」
「開けた」
「何で」
「こっちの電源切ったから」
「切っていいの」
「生活系じゃない」
「それ前も言ってた」
「前は分からなかった」
「今は?」
友人は扉へ手をかけた。
「もっと分からなくなった」
「何それ」
中は狭かった。
太い配管と細い線が壁沿いに走っている。古い金属へ、何世代分もの補修材が重なっていた。最初からこうだったのか、後から継ぎ足されたのか、主人公には見分けがつかない。
「誰か使ってた?」
「保守はしてた」
「何のため」
「止まると困るって引き継ぎ」
「何が困る」
「知らん」
「それで直してたの?」
「そう」
「怖」
「地下はそういうの多い」
「勝手に入るな」
後ろから養父の声がした。
主人公が振り返る。
「親父も知らない?」
「全部知ってたら苦労しない」
友人が壁を指した。
《L-04》の下に、ほとんど削れた文字が残っている。
「読めない」
「昔からだ」
養父が答えた。
「昔って」
「俺がここへ来た時には」
「誰が作った」
「昔の人間」
「俺らじゃん」
「お前は作ってない」
「旧人類って意味」
「そういう意味ならな」
友人が端末を取り出した。
「これ」
数字と記号が並んでいる。
「分からん」
「俺も半分」
「じゃあ何見せてる」
「ここ」
友人が古い設備の刻印と、端末上の記号を交互に指す。
「同じ?」
「似てる」
「何のデータ」
友人が主人公を見た。
「お前が持ってきたやつ」
主人公は黙った。
「研究棟?」
「そこから回った解析データ」
「また俺の」
「お前のじゃない」
「それ最近よく言われる」
養父が二人の間から端末を見る。
「何が一致した」
「識別規格」
「何の」
「旧設備の」
「何で今の研究棟にある」
「向こうも旧設備を調べてたから」
主人公が壁を見る。
「地上もL-04を知ってる?」
「L-04は知らん。規格を知ってる」
友人が表示を切り替えた。
「これまで、この線が何につながってるか分からなかった」
「今は?」
「候補が出た」
養父が聞く。
「何だ」
友人はすぐには答えなかった。
「都市設備」
「普通じゃん」
「旧都市設備」
「もっと普通じゃん」
「平時用と、非常時用が同じ規格に入ってる」
養父の顔が変わった。
「どっちだ」
「分からん」
「じゃあまだ」
「でも、これがあった」
友人が古い保守記録を出した。
紙の端は茶色くなっている。
中央に《第零系》。
別の欄には《零号》。
「ゼロ?」
「番号かもしれん」
「何の」
「分からん」
「分からんものを動かすな」
養父が言った。
「動かしてない。むしろ止めた」
「いつ」
「昨日」
「生物のやつ止めた時?」
「その前から分けてた。生活系って札つけ始めただろ」
「うん」
「系統を追ったら、こいつだけ分類できなかった」
「だから切った?」
「電気は」
主人公は眉を寄せた。
「電気は?」
友人が奥を見る。
低い音が鳴っていた。
一定ではない。
遠くで大きな何かが息をしているように、わずかに強弱を繰り返している。
「……何これ」
「電気切っても止まらなかった」
主人公は一歩下がった。
「怖」
「さっきも言った」
養父が壁へ耳を寄せる。
「別系統か」
「たぶん」
「たぶんで入るな」
「だから呼んだ」
「俺を?」
「違う」
足音が近づいた。
昨日、生物学的経路を閉じると言った研究者が入ってくる。
「何であんた」
主人公が聞いた。
「照合を頼まれた」
「また研究?」
「これは俺の研究じゃない」
研究者は古い表示と端末を見比べた。
「この識別子、研究棟に同型資料がある」
「何の」
「旧時代の都市防護系」
主人公は低い音を聞いた。
「防護?」
「名称上は」
養父が顔を上げる。
「名称上?」
「旧資料は、平時設備と非常時設備の分類が今と違う」
「武器?」
「まだ言えない」
「言えないの多いな」
「分からないものを分かったと言うよりいい」
主人公は口を閉じた。
それは、この前までなら聞き流したかもしれない言葉だった。
今は違う。
研究者が古い紙を取る。
「第零系」
「何」
「資料側では、第零号は装置名じゃない」
「じゃあ何」
「運用区分」
養父が聞く。
「何の」
「原用途へ戻す区分」
「原用途?」
「転用されている都市設備を、非常時に本来の用途へ戻す」
友人が壁を見る。
「本来って」
「そこがまだ分からない」
「じゃあ何も分かってないじゃん」
「一つ分かった」
「何」
研究者は部屋の壁、その向こうに広がる地下を見た。
「ここで今、生活に使ってるものが、昔も生活用だったとは限らない」
主人公の頭に食堂が浮かんだ。
蛇口から出る水。
鍋を温める熱。
毎日開ける扉。
空になった予備棚。
「逆も?」
「ある」
「昔生活用だったものを、今は別に使ってる?」
「あり得る」
「分からん」
「だから調べる」
「動かすな」
養父がすぐ言った。
「動かさない」
研究者もすぐ返す。
「調べるだけだ」
主人公は研究者を見る。
「その言い方、嫌い」
研究者は少し黙った。
「俺も今は嫌いだ」
誰も笑わなかった。
低い音だけが続いている。
「これ、第零号?」
主人公が聞いた。
「違う」
「じゃあ」
研究者は紙を見た。
「第零号は、これを含む何かを元に戻すための名前だ」
「元って」
誰も答えなかった。
低い音は、ずっと地下の生活の下で鳴っていた。
新しく作られたものではない。
主人公が持ち帰ったデータが作ったものでもない。
ただ、そのデータによって、今まで読めなかった名前が読めるようになった。
主人公は《第零系》の文字を見た。
知らなかったものが生まれたのではない。
ずっと足元にあったものを、知らないまま使っていた。




