第68話 残った仕事
翌朝、主人公は病院の入口に立っていた。
扉は昨日と同じだった。
床も、受付も、壁の案内も変わっていない。
自動扉が開いたので、中へ入った。
「どうしました?」
受付から声をかけられる。
「……別に」
「別に?」
「来ただけ」
「診察ですか?」
「違う」
「面会?」
「違う」
「では」
「昨日」
そこまで言うと、受付の人の顔が変わった。
「少し待ってください」
主人公は椅子へ座った。
前にもここで待ったことがある。
姉を探していた頃だった。
そのとき、昨日死んだ若いスタッフがこの廊下を何度か通った。
紙を持っていた。
誰かに呼ばれていた。
主人公の怪我を見て、声をかけたこともあった。
昨日も同じだった。
今日は通らない。
十分。
十五分。
「待たせた」
医者が来た。
主人公は立った。
「何で待たせるの」
「仕事してるから」
「……そっか」
「何を聞きたい」
主人公は口を開いた。
誰が許可したのか。
何が広がったのか。
誰の責任なのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど出たのは違う言葉だった。
「昨日の人」
「うん」
「名前」
医者が主人公を見る。
「知らないのか」
「知らない」
「何回か会ってたんだろ」
「会った」
「話した?」
「ちょっと」
「名前は?」
「聞かなかった」
医者が名前を言った。
主人公は一度聞いた。
「もう一回」
同じ名前が、もう一度口にされる。
主人公は小さく繰り返した。
「それで合ってる?」
「合ってる」
「そっか」
名前を覚えた。
昨日まで知らなかった名前を、死んだ次の日に。
「それだけ?」
「……仕事」
「何」
「何してた」
「いろいろ」
「いろいろじゃ分かんない」
「俺も全部は知らない」
「同じ職場なのに?」
「お前、地下の全員が今日何してるか知ってる?」
「知らない」
「そういうこと」
主人公は少し考えた。
「じゃあ」
「来る?」
「どこ」
「見れば分かる」
医者について廊下を歩いた。
一つの机の前で止まる。
椅子だけが空いていた。
「ここ」
机には閉じた端末がある。
紙の束。
カップ。
ペンが二本。
飴が三個。
「飴」
「よく食ってた」
「甘いやつ?」
「飴はだいたい甘い」
「そうだけど」
医者が紙を一枚取った。
手書きで項目が並んでいる。
《午後 再確認》
《連絡》
《返却》
《結果説明》
「今日の?」
「昨日の」
「終わってない」
「死んだからな」
主人公が医者を見る。
「悪い」
「何が」
「言い方」
「……本当じゃん」
主人公は紙へ視線を戻した。
「これどうする」
「引き継ぐ」
「誰が」
「俺ら」
別のスタッフがやってきた。
「先生、これ」
「そこ」
「昨日の分です」
「分かってる」
紙が増えた。
「これも?」
「うん」
別の人が端末を開く。
「予約、振り分けます」
「午前から頼む」
「はい」
主人公は二人を見た。
「普通にやるの」
二人とも一瞬止まった。
「やるよ」
医者が言った。
「患者来るから」
呼び出しが鳴った。
一人の老人が受付へ来る。
「いつもの子は?」
受付の人の手が止まった。
「本日は別の者が担当します」
「休み?」
少しの沈黙のあと、医者が前へ出た。
「亡くなりました」
「……え」
老人はそれだけ言った。
長い間、次の言葉が出なかった。
「昨日」
ようやく老人が言う。
「次、検査の紙くれるって」
「こちらで用意します」
「そう」
老人は椅子へ座った。
両手を膝に置く。
「若いのに」
誰も答えなかった。
主人公は机へ戻った。
飴が三個ある。
「食べていい?」
「駄目」
「何で」
「本人の物だ」
「そっか」
触らなかった。
二本あるペンの片方には蓋がなかった。
「蓋」
「何」
「ない」
「いつもない」
「何で」
「なくしたんだろ」
「探さないの」
「今?」
主人公は机の下を見た。
何も見つからない。
「……いい」
別のスタッフが未処理の紙を一枚取った。
「これ、私やります」
「頼む」
一枚減る。
「この連絡、先にします」
「頼む」
また減る。
残された仕事が、人から人へ移っていく。
椅子だけは動かなかった。
昼になった。
主人公はまだそこにいた。
「帰らないの」
「邪魔?」
「少し」
「じゃあ帰る」
「そうして」
主人公は立った。
出口へ向かいかけて、振り返る。
「先生」
「何」
主人公は、さっき教えられた名前を言った。
「合ってる?」
「合ってる」
「そっか」
今度は一度で言えた。
病院の外へ出る。
端末に姉から返事が来ていた。
《分かった》
《子どもにはまだ話してない》
《会って話そう》
主人公は読んだ。
返事はまだ打たなかった。
昨日、研究は一度だけ使われた。
今日は病院で、死んだ人の名前が何度も呼ばれている。
患者が来る。
紙が残る。
連絡が残る。
予約が残る。
仕事は残った。
だから、その人まで残っているわけではなかった。
残った仕事を、別の誰かがやっている。
空いた椅子は、そのままだった。




