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第67話 一度だけ


「曲がってる」


「読める」


「曲がってる」


 朝から友人がうるさい。


 主人公は昨日作った《生活用》の札を棚へ押しつけた。


「お前が貼れ」


「貸せ」


 友人が剥がし、貼り直す。


 主人公は首を傾げた。


「まだ曲がってる」


「うるさい」


 棚はまだ空だった。


 昨日、二人で用途を調べて、生活用だと分かるようにした。それでも浄水弁はまだ届いていない。


「今日来るかな」


「知らん」


「来なかったら」


「また書類」


「嫌」


「お前が始めた」


「必要だったから」


 廊下を走る足音が近づいた。


「来い」


 入口に、研究側と話していた強硬な男が立っていた。


「何」


「確認」


「何の」


「外」


 主人公は立ち上がった。


「何する」


「試す」


「何を」


 答えを聞いた瞬間、主人公の顔から力が消えた。


「は?」


「一度だけだ」


「何で」


「机の上じゃ分からん」


「まだ何もできてないって言ってたろ」


「完成品を使う話じゃない。仮説の一部を見る」


「誰が決めた」


「こっちで決めた」


「親父?」


「違う」


「親父、知ってる?」


「研究が続いてることは」


「今日のこれ」


 男は答えなかった。


「知らない?」


「許可を求めてない」


「やめろ」


「お前に止める権限はない」


「お前にもないだろ」


「承認された範囲でやる」


「誰に」


「今ここで説明する必要はない」


「ある!」


 主人公が一歩詰める。


 男は紙を出した。


《単回》

《限定区域》

《即時中止》

《医療待機》


「人にやる?」


「直接はやらない」


「じゃあ何」


「環境側の反応を見る」


「それで誰かに効いたら」


「届かない条件にしてある」


「絶対?」


「絶対なんて言ってない」


「じゃあやるなよ」


「絶対じゃなければ何もできん」


 主人公は紙を指で叩いた。


「姉ちゃんは」


「区域外だ」


「子ども」


「区域外」


「他のやつ」


「立入を止める」


「全部?」


「予定では」


 その言葉が嫌だった。


 予定。


 昨日まで主人公自身が、何に使うのか、どこへ行くのかを分けて見えるようにしようとしていた。


 目の前の紙には、研究だけが別の言葉で囲われている。


「俺、親父に言う」


「好きにしろ」


 主人公は走った。


 養父の部屋にはいない。


 食堂にもいない。


「親父どこ」


「外。荷の確認」


 端末を鳴らす。


 つながらない。


 もう一度。


 駄目だった。


 主人公は研究区画へ戻った。


「待て」


「もう始める」


「待てって!」


 地上へ出る。


 使われていない古い保守区画だった。


 道路から少し離れた設備帯。立入表示が置かれ、何人かが計測器を見ている。


 遠くには普通の建物がある。


 車が走る。


 人が歩く。


 その日常と、こちら側だけを切り離すように札が並んでいた。


「医療待機って」


「向こう」


 男が示した先に車が一台あった。


 白い服の若いスタッフが立っている。


「あ」


 向こうも主人公に気づいた。


 軽く手を上げる。


 病院で何度か会った人だった。


「知り合い?」


「知り合いってほどじゃない」


 若いスタッフは距離を保ったまま声をかけた。


「また怪我?」


「違う!」


「ならよかった」


 それだけだった。


 普通のやり取りだった。


「開始する」


 声がした。


「待って」


 誰も待たなかった。


 音はしなかった。


 光もしなかった。


 風景は何も変わらない。


「……何した?」


「計測中だ」


 数字だけが動く。


「反応あり」


「範囲内?」


「範囲内」


 男が息を吐いた。


「終了」


 主人公は周囲を見た。


 何も起きていない。


 一度。


 それで終わった。


 そう見えた。


「待って」


 計測していた一人の声が変わった。


「何」


「外側に反応」


 数人が画面へ寄る。


「何で」


「分からない」


「中止」


「もう終了してる」


「広がってる」


 主人公は道路の向こうを見る。


 何も見えない。


 けれど、さっきの医療スタッフが壁へ手をついた。


「おい」


 顔が上がる。


「……何」


 一歩。


 膝が崩れた。


 主人公は走った。


「入るな!」


「うるさい!」


 スタッフが地面へ倒れる。


 息が浅い。


「何した」


 主人公は振り返った。


「何した!」


「搬送!」


 人が一斉に動く。


 主人公も近づこうとしたが、腕を掴まれた。


「触るな!」


「何で!」


「お前は対象じゃない!」


「対象って何だよ!」


 担架が運ばれてくる。


 若いスタッフの目が一度だけ開いた。


 主人公を見る。


「……また」


 浅い息の間から声が漏れた。


「怪我……?」


「違う」


「そっか」


 車の扉が閉まった。


 主人公は強硬な男を見た。


「一度だけって」


「……一度だ」


「限定って」


「そのはずだった」


「区域外だろ」


「……そうだ」


「姉ちゃんも区域外って言った」


 男は答えない。


「子どもも」


 答えない。


 研究者の一人が言った。


「追加使用は禁止。全記録を封鎖する」


「今さら」


 主人公の声が震えた。


「今さらだろ!」


「止める」


 男が言う。


「もうやった!」


「分かってる」


「分かってねえ!」


 端末が震えた。


 養父からだった。


『何だ』


「親父」


『どうした』


 言葉が出ない。


『おい』


「使った」


 向こうが黙る。


『何を』


「研究」


『誰が』


 主人公は男を見る。


「親父、知らなかった?」


『何の話だ』


 知らなかった。


 主人公は目を閉じた。


「人が倒れた」


 病院へ着いたとき、搬送車はもう見えなかった。


 主人公は待った。


 前にもここで待った。


 姉が生きていると分かる前だった。


 あの若いスタッフが、紙を持って廊下を通った。


 誰かに呼ばれて、普通に返事をしていた。


 扉が開いた。


 医者が出てくる。


 主人公は立った。


「さっきの人」


 医者は主人公を見た。


 答えるまでが、少し長かった。


「助けられなかった」


「……何で」


 医者は答えなかった。


「何で」


 今度も答えはなかった。


 一度だけ。


 使ったのは、一度だけだった。


 それで十分だった。


 朝、主人公と話した人が。


 もう、いなかった。

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