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第64話 消せない


「消して」


 研究区画へ入ってきた主人公の第一声に、研究の男が顔を上げた。


「何を」


「データ」


「どれ」


「俺が持ってきたやつ」


「全部?」


「全部」


 男は椅子の背にもたれた。


「何で」


「いいから」


「よくない」


「俺が盗んだ」


「知ってる」


「俺が持ってきた」


「知ってる」


「じゃあ俺が消すって言ったら消せるだろ」


「消せない」


 主人公は机へ手をついた。


「何で」


「もう説明したはずだ」


「もう一回」


 男はため息をつき、端末を開いた。


「原データの保存」


「消す」


「解析用複製」


「消す」


「医務側の抽出」


「消す」


「派生表」


「消す」


「検証記録」


「消す」


「治療記録」


「……」


 男が主人公を見る。


「消す?」


「それは」


 主人公は止まった。


 階段を上った男を思い出す。


 大きな芋を買って帰った男。


「患者の記録まで消したら」


「治療が困る」


「そう」


「じゃあそこは残す」


「そこに元データから得た判断が入ってる」


「抜けば」


「何をどこまで?」


 主人公は端末の一覧を睨んだ。


「じゃあ、危ない方だけ」


「どれが危ない方?」


「逆向き」


「同じ基礎解析から出てる」


「分けたって言っただろ」


「運用上は分けた。知識まで別々に生まれたわけじゃない」


「意味分かんない」


「俺も最初から全部分かってたわけじゃない」


 男は紙を一枚取った。


 白紙に一本、線を引く。


「これがお前が持ってきたものだとする」


「うん」


 線の先を二つに分けた。


「医療」


「うん」


「基礎解析」


「うん」


 そこから、さらに枝を増やす。


「治療法」


「うん」


「安定条件」


「うん」


 また分かれる。


「検証」


「うん」


「逆向きの問い」


「うん」


 男は最初の一本を指で隠した。


「最初の線を消したら、後ろも消える?」


 主人公は紙を見る。


 指の向こうに、枝分かれした線は残っていた。


「……消えない」


「そういうこと」


「でもデータ消したら」


「同じ解析をやり直しにくくはできる」


「じゃあやろう」


「俺だけでは決められない」


「また権限」


「今回は権限だけじゃない」


「何」


 男は自分のこめかみを指した。


「ここ」


「何」


「覚えてる」


「忘れろ」


「無理」


「頑張れ」


「無理」


「寝たら」


「お前は寝たら配管の直し方忘れるのか」


「忘れない」


「俺も」


 主人公は黙った。


「全部?」


「全部じゃない」


「なら」


「でも、考え方は残ってる」


「書かなければ」


「俺以外も知ってる」


「何人」


「正確には知らない」


「何で」


「共同で読んだから」


「何人」


「だから」


「何人!」


 声が廊下まで響いた。


 通りかかった人がこちらを見る。


 研究の男は声を落とした。


「数えても、ゼロにはならない」


 主人公は大きく息を吸った。


「俺が持ってこなかったら」


「この経路では進まなかったかもしれない」


「じゃあ」


「でも今は、持ってきた後だ」


「戻せない?」


「完全には」


 短い答えだった。


 主人公は机の上を見る。


 端末。


 紙。


 そして、人。


 端末なら壊せる。


 紙なら燃やせる。


 けれど、人の中へ移ったものは。


「研究やめたら」


「止められる部分はある」


「何」


「新しい検証。新しい共有。新しい応用」


「それなら」


「できる」


「全部じゃない」


「全部じゃない」


「じゃあ意味ない?」


「何でゼロか全部かなんだ」


 主人公が顔を上げる。


「消せないなら」


 男は紙の枝を指した。


「増やさない、という選択は残る」


「止める?」


「俺は決める側の一人でしかない」


「俺も入る」


「何に」


「決める方」


「権限ないぞ」


「作る」


「簡単に言うな」


「簡単じゃない」


 主人公は研究区画を出た。


 医務区画の前を通ると、あの男が椅子に座って足を動かしていた。


「お」


「どう」


「いい」


「芋」


「まだ言うか」


「なくなった?」


「食った」


 主人公はその足を見る。


 消したいものがある。


 消したくないものも、もう同じところから生まれている。


「次、何買う」


「何でお前に言う」


「気になる」


「豆」


「地味」


「うるさい」


 主人公は笑えなかった。


 けれど、この男が歩けることを消したいとも思わなかった。


 夜。


 部屋へ戻った主人公は、姉とのやり取りを開いた。


《聞きたいことある》


 昨日送った一文が残っている。


 消去を押せば、この文字は消える。


 指を置く。


 やめた。


 消せるものはある。


 消せないものもある。


 だから、消せないことを言い訳にはしない。


 次に何を増やすかは、まだ選べる。


 主人公は新しく打った。


《地下で研究が進んでる》

《姉ちゃんたちにも関係ある》


 送る。


 もう、なかったことにはできない。


 なら、ここから先を知らないままにはしなかった。

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