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第62話 変わった


「見せて」


「駄目だ」


 研究の男は、机に広げていた紙を主人公から遠ざけた。


「何で」


「権限」


「昨日見せた」


「昨日は説明用」


「今日も説明して」


「嫌だ」


「逆向き」


「言えば通じると思うな」


「どこまで進んだ」


「昨日から一日だぞ」


「一日あれば進む」


「お前の修理と一緒にするな」


「修理は一日で結構進む」


「知るか」


 主人公が紙の端を覗こうとすると、研究の男はその上へ別の書類を重ねた。


「けち」


「仕事」


「同じだろ」


「違う」


「気になるか」


 後ろから声がした。


 主人公が振り向く。


 地上を昔から信用していない男が、入口に立っていた。


「気になる」


「怖い?」


「何が」


「共生人に効くものができるのが」


「姉ちゃんに効くなら嫌」


「ほらな」


「何が」


「変わった」


「変わってねえ」


 答えはすぐに出た。


 男は少し笑った。


「前のお前なら、そんな聞き方はしなかった」


「前っていつ」


「地上へ出る前」


「姉ちゃん見つける前だろ」


「同じだ」


「違う」


「地上へ行って変わった」


「変わってねえ」


「姉が共生人だったからか」


「姉ちゃんは姉ちゃん」


「それを言ってる」


「何を」


「前のお前は」


「勝手に決めるな」


「聞け」


「嫌」


「なら何で怒る」


「怒ってない」


「怒ってる」


「怒ってない!」


 研究の男が顔を上げた。


「廊下でやれ」


「何で俺まで」


「二人とも」


 追い出された。


 扉が閉まる。


「お前のせい」


「俺は紙を覗いてない」


「関係ない」


 二人は並んで歩き出した。


 狭い通路を配管が這っている。角を曲がってきた作業員を避け、また横に並ぶ。


「前のお前は」


 男が続けた。


「地上を占領地と言った」


「今も」


「言えるか」


 主人公の足が少し遅くなる。


「……言える」


「姉の家も?」


「それは」


「公園も?」


「何で公園知ってる」


「お前が話した」


「話したっけ」


「話した」


「姉ちゃんの子が通う学校は知らない」


「地上だ」


「だから何」


「占領地だろ」


 主人公は口を開いた。


 閉じた。


「ほら」


「何がほらだよ」


「変わった」


「変わってねえ」


 さっきより、少しだけ声が弱かった。


 主人公は歩く速度を上げる。


 男も同じ速度でついてきた。


「ついてくんな」


「同じ方向だ」


「別の道行け」


「何で俺が」


 いつもの通路だった。


 低い天井。


 古い配管。


 角の擦れた壁。


 主人公は手を伸ばし、通り際に壁へ指を触れた。


「俺、ここ好きだよ」


「知ってる」


「地上より」


「それも知ってる」


「なら」


「好きな場所があることと、他を全部敵にすることは同じじゃない」


 主人公が男を見る。


「誰の味方だよ」


「地下だ」


「じゃあ何で」


「地下の味方なら、お前が変わったことも見える」


「変わってねえ」


 三回目だった。


 今度は、自分でも少し引っかかった。


「じゃあ聞く」


「何」


「地上から全部取り返したいか」


 主人公は止まった。


 昔なら、答えはあった。


 たぶん、迷わなかった。


 土地。


 建物。


 駅。


 研究棟。


 全部、人間のもの。


 返せ。


 そう思えた。


 今は、その「全部」の中に別のものが混ざる。


 姉の家。


 玄関に並んだ子どもの靴。


 姉のパートナー。


 医務区画で働いていた若い人。


 公園。


 犬。


 店。


 名前も知らない客。


「……全部って何」


 男の目が細くなった。


「それだ」


「何が」


「前は聞かなかった」


「だって、今住んでるやついるだろ」


「共生人が」


「そうだけど」


「奪われた土地だ」


「でも」


「でも?」


 主人公は言葉を探した。


「姉ちゃんの家」


「うん」


「今、姉ちゃんの家だろ」


「昔は別の人間の土地だったかもしれない」


「そうだけど」


「なら?」


「知らないよ!」


 声が通路へ響いた。


 通りかかった二人がこちらを見る。


 主人公は少し俯いた。


「……知らない」


 男は責めなかった。


 数歩分、黙って歩いた。


「俺は」


 主人公が先に口を開く。


「地下なくなったら嫌」


「俺もだ」


「ここ攻撃されたら戦う」


「俺もだ」


「親父とか友達とか」


「うん」


「守る」


「うん」


「変わってない」


「そこはな」


 主人公が顔を上げる。


「じゃあ変わってない」


「そこは、と言った」


「全部変わる必要ないだろ」


「ない」


 主人公は足を止めた。


「……ないの?」


「何が」


「変わったら」


 男は主人公を見る。


「裏切りになると思ってるのか」


 主人公は答えなかった。


「俺はお前の考えに賛成してると言ってない」


「じゃあ」


「姉のことになると甘いとも思ってる」


「うるさい」


「地上を見て、判断が変わったとも思ってる」


「変わってねえ」


「まだ言うか」


「だって」


 主人公は壁を見た。


「俺は俺」


「それもそうだ」


「どっちだよ」


「人間は、変わったら別人になるのか?」


 主人公は何も言わなかった。


 姉を思い出した。


 移行した。


 十八年が過ぎた。


 身体も、暮らしも変わった。


 それでも、姉だった。


「……ずるい」


「何が」


「その言い方」


「何の話だ」


「別に」


 男はまた歩き始めた。


「研究は続ける」


「うん」


「俺は必要だと思う」


「うん」


「お前が嫌がっても」


「うん」


「それでも意見は言え」


「何で」


「黙って後から裏切られたと言われる方が面倒だ」


「俺、裏切らない」


「なら言え」


 男は角を曲がった。


 主人公だけが通路に残る。


 変わった。


 その言葉が嫌だった。


 地上に染まった。


 地下を捨てた。


 そんな意味に聞こえた。


 でも、地下を捨ててはいない。


 部屋がある。


 養父がいる。


 友人がいる。


 訓練がある。


 飯がある。


 全部、まだ自分のものだった。


 そこへ姉が増えた。


 姉の子も増えた。


 減ったのではない。


 増えた。


「変わってねえ」


 主人公は小さく言った。


 今度は、誰かに聞かせるためではなかった。

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