第60話 治すため
「走るな!」
医務区画から怒鳴り声が飛んだ。
廊下を急いでいた年上の男が、ぴたりと止まる。
「走ってない!」
「速い!」
「歩いてる!」
「その歩き方をやめろ!」
主人公は壁際で目を丸くした。
「あの人」
「うん」
「前の」
「うん」
「元気じゃん」
医務担当がため息をつく。
「だから怒ってる」
「何で」
「調子に乗るから」
「聞こえてるぞ」
男が振り返った。
主人公は近づく。
「階段は?」
「上がった」
「休んだ?」
「一回」
「前と同じじゃん」
「前は三回だ」
「本当に?」
「数えるな」
医務担当が記録用紙を確認する。
「今日は二回まで」
「一回でいける」
「二回まで休んでいいって意味だ」
「紛らわしい」
「どこが」
男が笑った。
主人公はその顔を見る。
前にここで会ったとき、男は「少し楽だ」と言っていた。
今日は、少しではなさそうだった。
「治った?」
「まだその言い方するか」
医務担当が測定器を持ってくる。
「じゃあ何」
「改善」
「どれくらい」
「今から測る」
男を椅子へ座らせる。
立たせる。
歩かせる。
呼吸を測る。
脈を取る。
採った血の数値を端末で確認する。
主人公には半分も分からない。
「いい?」
「いい」
「本当に?」
「前回よりな」
「薬?」
「薬だけじゃない」
「俺のデータ?」
「お前のじゃない」
「俺が持ってきた」
「研究棟のデータ」
「細かい」
「大事」
医務担当は記録の一か所を指した。
「これ」
「分からん」
「ここ」
「分からん」
「じゃあ聞くな」
「説明して」
「共生系の恒常性維持」
「うん」
「分からない顔してる」
「分からない」
「身体が崩れた状態から、元の範囲へ戻ろうとする仕組み」
「治る力?」
「雑だが近い」
主人公は男を見る。
「それを人間に入れた?」
「入れてない」
返事は即座だった。
「そこは絶対に違う」
「じゃあ何したの」
「仕組みを見た。旧人類側で、同じ目的を達成できる経路を探した」
「共生人にしたわけじゃない?」
「してない」
「移行も?」
「してない」
「何も?」
「何も」
男が横から口を挟む。
「俺は俺だ」
「分かってる」
「なら本人にも聞け」
「何か変わった?」
「階段が楽」
「それ以外」
「腹が減る」
「元からだろ」
「そうかも」
「まだ経過は見るぞ」
医務担当が言った。
主人公が振り向く。
「戻るかも?」
「可能性はある」
「悪くなる?」
「ある」
「じゃあ成功じゃない?」
「今日の時点では成功」
「今日だけ?」
「医療ってそういうもんだ」
「曖昧」
「身体が曖昧なんだ」
奥から女性が入ってきた。
男を見るなり眉を吊り上げる。
「また歩いた?」
「歩いただけ」
「走ったでしょ」
「走ってない」
医務担当が言う。
「速かった」
「同じだろ」
「違う」
女性が男の腕を軽く叩いた。
「昨日、買い物まで行ったんだよ」
「どこ」
主人公が聞く。
「配給所」
「近いじゃん」
「前は行けなかったの」
主人公の口が止まった。
近い。
ほんの短い距離だ。
でも、行けなかったところへ行けた。
「何買った」
「芋」
「芋」
「悪いか」
「もっと成功っぽいものないの」
「芋で十分だろ」
女性が笑った。
「自分で選んできたんだよ。久しぶりに」
「でかいの買った」
「硬かった」
「煮ればいい」
「煮るの私」
「俺もやる」
「包丁持って立ちっぱなしは禁止」
「座る」
主人公は二人を見る。
治療。
成功。
その結果が、芋だった。
もっと大きなものを想像していた。
奇跡とか、歓声とか、地下中へ知らせが回るとか。
違った。
男は近い配給所まで自分で歩いて、自分で芋を選んだ。
それだけだった。
でも、前にはできなかった。
「他にも使える?」
主人公が聞いた。
「条件が合えば」
「何人」
「まだ少ない」
「増やす?」
「安全確認してから」
「急がない?」
「急いで壊したら治療じゃない」
主人公は頷いた。
それから、少し迷う。
「データ」
「何」
「持ってきて」
言葉が止まった。
「よかった?」
医務担当が主人公を見る。
「その聞き方」
「何」
「また一個にしようとしてる」
「……」
「盗んだこと」
「うん」
「問題」
「うん」
「ここで使ったこと」
「うん」
「検討が要る」
「うん」
「この人の状態が良くなったこと」
「うん」
「良かった」
主人公は眉を寄せた。
「分けるの」
「分けないと患者が消える」
「患者?」
「お前が盗んだかどうかだけで全部語ったら」
医務担当は男を指した。
「こいつが歩けたことが、話から消える」
「消すな」
男が言う。
「消さない」
「芋も」
「芋はどうでも」
「消すな」
「分かったよ」
主人公は笑った。
帰り際、男は階段を上った。
一段。
二段。
三段。
途中で止まり、息を整える。
主人公は横へ立った。
「手」
「いらん」
「転ぶなよ」
「転ばねえ」
また上がる。
最後の段へ足を載せる。
男は上で振り返った。
「ほら」
「何」
「治った」
下から医務担当の声が飛んだ。
「改善!」
「うるさい!」
男の声と、主人公の笑いが階段に響いた。
盗んだことは、消えない。
使い方を考えなければならないことも、消えない。
でも今日、この男が自分の足で階段を上がったことも消えない。
主人公は三つを、無理に一つの答えへまとめなかった。




