第59話 今日はこっち
「じゃあ、帰るね」
大扉の前で姉が言った。
「うん」
主人公も答えた。
それだけで、二人とも少し黙った。
「送る」
「扉まででいいよ」
「地上まで」
「駅まで来る?」
「……」
「来てもいいけど」
主人公は扉の脇に積まれた補修材を見る。
昨日の研究の話が、まだ頭に残っている。
抑止。
姉。
姉の子。
地下を守ること。
地上にいる人を傷つけないこと。
どれか一つにまとめようとすると、すぐ引っかかった。
「今日は」
「うん」
「こっちいる」
姉は普通に頷いた。
「うん」
主人公は眉を寄せる。
「何」
「何が」
「止めないの」
「何を」
「一緒に来いとか」
「来てほしいの?」
「そうじゃない」
「じゃあ言わない」
「姉ちゃん冷たくない?」
「面倒くさいなあ」
「何だよ」
「来てって言ったら来る?」
「今日は行かない」
「ほら」
二人とも笑った。
大扉のロックが外れる。
重い金属がゆっくり動き、夕方の光が地下の白い照明へ細長く差し込んだ。
境目の床だけが、二種類の光で照らされる。
「明日」
姉が言った。
「来る?」
「地上?」
「うち」
「分かんない」
「分かったら連絡して」
「うん」
「子どもがさ」
「何」
「昨日のやつ、ちゃんと置いたかって」
「置いた」
「どこ」
「箱の上」
「本当に?」
「写真送る?」
「送って」
「何で姉ちゃんに」
「私の端末経由だから」
「面倒」
「じゃあ直接連絡先交換すれば」
「子どもと?」
「叔父でしょ」
主人公は黙った。
叔父。
まだ自分に馴染んでいない呼び名だった。
「今度」
「うん」
「今度でいい」
「何が」
「交換する」
「了解」
姉が境目を越える。
一歩、地上側へ出たところで振り返った。
「じゃあ、また」
「うん」
主人公は少し遅れて言った。
「また」
扉が閉じる。
夕方の空が細くなり、最後に消えた。
重い音が地下へ響く。
主人公はしばらく、その扉を見ていた。
前なら。
扉の向こうに姉がいると分かっていたら、開けたかった。
連れて戻りたかった。
姉の帰る場所はここだと、疑わなかった。
今、姉は帰った。
姉の家へ。
主人公は残った。
主人公の家に。
「いつまで見てる」
背後から声がした。
主人公が振り返る。
訓練担当の男が立っていた。
「今来た?」
「いた」
「声かけろよ」
「邪魔かと思った」
「何が」
「知らん」
「何だよ」
「訓練」
「今から?」
「さぼった分」
「姉ちゃん来てた」
「知ってる」
「家族行事」
「終わった」
「厳しい」
「走れ」
主人公は走り出した。
いつもの通路を曲がる。
低い天井。むき出しの管。一定間隔の白い灯り。
昨日、一瞬だけ照明が落ちた場所を通った。
今日は消えない。
その少し先で、友人が壁際の記録板を見ていた。
「おい」
「何」
「これ」
「何」
「昨日のやつ」
主人公は足を止める。
「L-04?」
「それじゃない」
「じゃあ何」
友人が一枚の記録を見せた。
《負荷試験》
《最小出力》
《正常終了》
「何の」
「知らん」
「また?」
「俺のところには結果だけ来た」
「どこでやった」
「系統外」
「L-04?」
「だから知らん」
「成功?」
「記録上は」
「何が成功」
「負荷が通った」
「何に」
友人が主人公を見る。
「分からん」
遠くから怒鳴り声が飛んだ。
「走れ!」
「あとで!」
「今!」
主人公は記録をもう一度見る。
《最小出力》
《正常終了》
分かるのは、それだけだった。
「取っといて」
「俺の仕事だから取っとく」
「勝手に消すなよ」
「消さねえよ」
「あとで見る」
「見せるとは言ってない」
「何で」
「走れ」
主人公はまた走った。
何の試験なのか。
何に負荷をかけたのか。
誰がやったのか。
分からない。
昨日まで調べていた何かの、どこか一つが動いた。
それ以上は、まだ知らない。
それでも地下は爆発しなかった。
警報も鳴らない。
水は流れている。
夕飯を呼ぶ声がして、子どもが通路を走り、すぐ大人に怒られた。
「お前も走ってるだろ!」
子どもが主人公を指す。
「俺は訓練!」
「ずるい!」
「走れ!」
訓練担当の声がまた飛ぶ。
「ほら怒られた!」
「お前のせいじゃない!」
主人公は笑いながら走った。
いつもの地下だった。
訓練が終わって部屋へ戻る。
机の横の箱。
その上に、姉の子が作った用途のない金属の塊がある。
主人公は端末を出した。
写真を撮る。
姉へ送る。
《置いた》
少し待つと返事が来た。
《確認しました》
《本人も見ました》
《次はもっと変なの作るそうです》
主人公はすぐ返す。
《やめろ》
返事も早かった。
《無理だと思う》
「何でだよ」
誰もいない部屋で笑った。
端末を机へ置く。
姉は地上にいる。
主人公は地下にいる。
大扉は閉じている。
それでも、切れてはいなかった。
どちらかへ一緒に帰らなくても、また会える。
今日は姉があっちへ帰った。
主人公はこっちへ帰った。
それを、もう別れとは思わなかった。




