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第53話 十八年


 帰る時間には、まだ少しあった。


「座っていい?」


 姉が三番線の端にある古いベンチを指した。


「どこ」


「ここ」


「いいよ」


「許可いる?」


「いらない」


「じゃあ聞かなくてよかった」


「何で聞いた」


「弟の家だから」


 二人で腰を下ろす。


 ベンチは少し冷たかった。


 通路の向こうから工具の音がする。どこかで水が流れている。姉はしばらく何も言わず、その音を聞いていた。


「疲れた?」


「ちょっと」


「やっぱり」


「悪い意味じゃないよ」


「分かってる」


 主人公も前を向いた。


「姉ちゃん」


「何」


「十八年」


「うん」


「聞いていい?」


「どこから」


「全部」


「無理」


「じゃあ」


「十八年だよ」


「知ってる」


「長いよ」


 姉は膝の上で指を組んだ。


「最初は探した」


「うん」


「前にも言ったね」


「うん」


「でも、あれだけじゃ足りなかった?」


「足りないっていうか」


 主人公は靴の先を見る。


「俺、記録で見たから」


「私の人生を?」


「うん」


「最悪」


「ごめん」


「冗談」


 姉は少し笑った。


「最初は毎日。あなたがいるかもしれない場所を探した」


「うん」


「それから毎週になった」


「うん」


「それから、何か情報が入ったら」


「止めた?」


「うん」


「いつ」


「何年目って言われても、きれいには言えない」


「何で」


「止める日を決めたわけじゃないから」


 姉は天井を見た。


「学校に行く日が増えた。友達ができた。試験があった。仕事を探した」


「うん」


「朝起きて、今日はあなたを探さないって日が増えた」


「それで?」


「気づいたら、探してない日の方が多くなってた」


 主人公は少し黙った。


「罪悪感あった?」


「すごく」


「何で」


「弟がどこかで待ってるかもしれないのに、私だけ普通に暮らしてると思ったから」


「俺、待ってなかったよ」


「知ってる」


「生きてた」


「知ってる」


「だから」


「今はね」


 姉は主人公を見る。


「でも、そのときは知らなかった」


 主人公はまた靴へ視線を落とした。


「俺も、姉ちゃんがずっと探してると思ってた」


「お互い勝手だね」


「うん」


「十八年分」


「うん」


 通路を誰かが通り過ぎる。


 姉が軽く会釈し、相手も返した。


 もうこの場所でも、姉はただ見られるだけの客ではなくなり始めていた。


「移行したのは?」


 主人公が聞く。


「もっと後」


「何で」


「長いよ」


「聞く」


「本当に?」


「うん」


 姉は少し息を吐いた。


「病気になったからじゃない」


「うん」


「強制でもない」


「うん」


「仕事のためでもない」


「うん」


「誰かに言われたからでもない」


「じゃあ」


「生きてるうちに、私の周りでは共生人であることが特別じゃなくなった」


「どういうこと」


「友達がいた」


「共生人?」


「両方」


「うん」


「一緒に働いた。喧嘩もした。嫌いな人もいた。好きな人もいた」


 主人公が横を見る。


「今の人?」


「その前もいる」


「聞きたくなかった」


「全部って言った」


「そこは省ける」


「十八年だから」


「姉ちゃんの十八年、急に聞きたくなくなってきた」


「遅い」


 二人で少し笑った。


 笑いが消えてから、主人公は聞いた。


「それで?」


「それで……怖くなくなった、ではないかな」


「怖かった?」


「身体を変えるんだから」


「じゃあ何で」


「変わることと、私じゃなくなることが、同じじゃないって思うようになった」


 主人公は姉の横顔を見る。


 昔の顔ではない。


 けれど、その言い方は知っている気がした。


「申し込んで」


「うん」


「待って」


「うん」


「確認されて」


「うん」


「一回、延期した」


「したの?」


「怖くなったから」


「記録になかった」


「全部は書かれないよ」


「それで?」


「また考えた」


「うん」


「それでも受けるって決めた」


 主人公は両手を握った。


「後悔、してる?」


「してない」


 返事はすぐだった。


「そっか」


「うん」


「俺は」


「うん」


「まだ、よかったって言えない」


「言わなくていいよ」


 姉は穏やかに言った。


「私が言えるから」


 主人公は姉を見る。


 姉だった。


 記憶。声。言葉の間。からかうときの顔。


 でも、同じ身体ではない。


 その二つのどちらかを消さなくても、姉は目の前にいた。


「これ」


 姉が鞄を開けた。


 小さなものを一つ取り出す。


 古い金属だった。少し曲がり、色もほとんど落ちている。


「何」


「覚えてない?」


「知らない」


「でしょうね」


「何それ」


「昔の家の鍵についてたやつ」


 小さな魚の形をしていた。


「まだ持ってたの」


「たまたま」


「たまたま十八年?」


「箱の底にあった」


「大事だった?」


「捨てなかっただけ」


「どっち」


「分かんない」


 姉は笑う。


「そういうもの、あるでしょ」


 主人公は手を伸ばさず、姉の掌にある魚を見た。


「俺のもの?」


「違う。私の」


「じゃあ何で見せた」


「十八年って」


 姉は小さな魚を指先で転がした。


「全部捨てることでも、全部取っておくことでもなかったから」


 主人公は昨日見た姉の家を思い出した。


 写真。学校。仕事。夫。子ども。今使っている椅子。


 そこに、弟を失ったまま十八年間閉じた部屋はなかった。


 それでも箱の底には、この小さな魚が残っていた。


 弟のための祭壇ではない。


 姉自身の人生の端に、たまたま捨てられず残ったもの。


「俺」


「何」


「姉ちゃんが、変えられたって思ってた」


「うん」


「それなら、戻せばいいって」


「うん」


 姉は先を急がせなかった。


 主人公は自分で言葉を探した。


「でも、選んだんだな」


「うん」


 姉の返事は、それだけだった。


「まだ嫌?」


 主人公は少し考えた。


「分かんない」


「そっか」


「でも」


「うん」


「されたんじゃない」


「うん」


 それで十分ではない。


 主人公が姉の選択を好きになったわけでも、同じ選択をしたくなったわけでもない。


 けれど、前とは違う。


 誰かに奪われた姉を取り戻す、という形だけでは、もう考えられなかった。


 壁の時計を見る。


「帰る時間」


「うん」


 姉は小さな魚を鞄へ戻した。


「それ置いてかないの」


「私のだから」


「そうだった」


「欲しい?」


「別に」


「じゃあ持って帰る」


「うん」


 二人で立ち上がる。


 十八年。


 主人公がいなかった時間。


 それは、姉が止まっていた時間ではなかった。


 弟を探した。


 探さない日が増えた。


 学んだ。働いた。誰かを好きになった。


 怖がった。


 一度、延期した。


 それでも自分で選んだ。


 暮らした。


 その先に、今日、地下へ来た。


 主人公は、その十八年を好きになる必要はまだなかった。


 けれど、なかったことには、もうできなかった。

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