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第50話 地上のもの


「次」


 食事を終えた主人公が立ち上がる。


 姉はまだ座っていた。


「まだ見るの?」


「見に来たんだろ」


「そうだけど」


「こっち」


「帰る時間は?」


「まだある」


 主人公は壁の時計を見る。


「覚えてるんだ」


「条件だから」


「えらい」


「子ども扱いするな」


「はいはい」


 養父が食器を片づけながら言う。


「医務に寄るなら邪魔するなよ」


「しない」


「お前はする」


「今日は姉ちゃんいるからしない」


「何で私が保証人なの」


「姉だから」


「便利に使い始めたね」


 二人で通路へ出た。


 医務区画は三番線の端にある。


 ベッドが数台。棚と机。白い照明。薬品の匂いが、湿った地下の空気に薄く混じっている。


「ここ」


「病院?」


「違う」


「診療所?」


「たぶん」


「たぶん多いね」


「名前、気にしたことない」


「住んでるのに?」


「使えればいいだろ」


「さっきのお父さんと同じこと言ってる」


「似てない」


「そこも」


「やめろ」


 姉が笑いながら棚へ目を向けた。


 その笑いが途中で止まる。


「これ」


「何?」


「触っていい?」


 近くにいた担当者が顔を上げる。


「箱なら」


 姉は棚から薬箱を一つ取った。


 正面ではなく、裏返して製造表示を見る。


「これ、地上のだよ」


「薬だろ」


「そうじゃなくて」


 姉が小さな印字を指で示す。


「これ、そんなに古くない」


 主人公も覗き込む。


 文字は読める。製造元も、番号もある。


 今まで読もうと思ったことがなかった。


「どれくらい?」


「今も使ってる」


「今?」


「うん。この包装になったの、そんな昔じゃないよ」


「十八年前の在庫じゃなく?」


「少なくともこれは違うと思う」


 主人公は担当者を見る。


「そうなの?」


「薬は薬だ」


「答えになってない」


「効けばいい」


「どこから来るの」


 担当者は肩をすくめた。


「入るところから」


「それも答えになってない」


「俺は治す担当だ。運ぶ担当じゃない」


 姉は薬箱を元の位置へ戻した。


 今度は隣の消毒材を見る。包帯を見る。小さな測定器の型番を見る。


「これも」


「地上?」


「たぶん」


「姉ちゃんまで、たぶんって言った」


「専門家じゃないから。でもこの型、少し前まで普通に見た。後継品もある」


 主人公は棚を見渡した。


 昨日まで、ここにあるのは薬だった。


 包帯だった。道具だった。


 どこから来たかという名前はついていなかった。


 今は違う。


 一つ一つに、急に地上という場所がくっついて見えた。


「親父」


 医務区画を出てから、主人公は養父のところへ戻った。


「何だ」


「薬」


「飲め」


「違う」


「なら何だ」


「地上の?」


 養父は野菜を切る手を止めない。


「ものもある」


「知ってた?」


「知らずに使うか」


「俺、知らなかった」


「お前は飲めと言われたら飲め」


「雑」


「治るならいい」


「姉ちゃんも同じこと言ってた」


「言ってない」


「近い」


 姉が横から主人公の肩を小さく叩いた。


「地上から買ってるの?」


「全部じゃない」


「誰が?」


「必要なものを、必要な経路で入れてる」


「誰が?」


「俺は全部知らん」


「何で」


「知る必要がない」


「それ、安全?」


 主人公が眉を寄せる。


 養父は包丁を置き、今度は主人公を見た。


「一人捕まって、全部止まる方が安全か?」


「……あ」


「知ってるやつを増やせば、漏れる場所も増える」


「じゃあ親父も全部知らない」


「知らん」


 主人公には、それが少し奇妙だった。


 養父は地下のことなら何でも知っているような気がしていた。


「食べ物も?」


「一部」


「部品」


「一部」


「燃料」


「ものによる」


「じゃあ」


 主人公は周囲を見た。


 天井の灯り。水の流れる配管。養父の包丁。自分が毎日歩く床。


「ここだけで、生きてたんじゃないの」


「誰がそんなこと言った」


 主人公は口を閉じた。


 考える。


 地下は、人類が残った場所。


 地上は、奪われた場所。


 そう聞いて育った。


 けれど、地上のものを一本も使わず生きているとは、誰にも言われていない。


「……言われてない」


「なら勝手に増やすな」


 姉が主人公を見る。


「それで、ここが家じゃなくなる?」


「ならない」


 答えはすぐ出た。


「うん」


 姉はそれ以上言わなかった。


 また歩き始める。


 主人公は通路の照明を見上げた。


「これも?」


「知らない」


「水は?」


「知らない」


「空気」


「それは設備でしょ」


「設備の部品は?」


「知らないって」


「急に全部気になる」


「分かる」


 姉は壁の配管を見上げる。


「家って、どこから来たものだけでできてるか、普通は考えないもんね」


「姉ちゃんの家も?」


「外国製、いっぱいあると思うよ」


「外国あるの?」


「あるよ」


「そこから物来るの?」


「来る」


「どうやって」


「話広げない」


「気になる」


「今日は地下案内の日でしょ」


「俺が案内してるのに」


「今は私が地上案内してる」


「地下で?」


「変だね」


 二人で笑った。


 設備区画の脇を通ったとき、今度は姉が足を止めた。


「これ」


「何?」


「大きくない?」


 主人公は姉の視線を追う。


 古い配電設備だった。太い線が束になり、壁の奥へ消えている。見慣れすぎていて、今まで大きいとも小さいとも思わなかった。


「昔からある」


「ここで使う量にしては、大きい気がする」


「何が?」


「容量」


「でかい?」


「たぶん」


「また」


「専門じゃないから」


 姉は近づかなかった。表示だけを遠目に見る。


「昔、もっと使う予定だったのかな」


「知らない」


「うん」


 それだけ言って、歩き出した。


 主人公は一度だけ振り返った。


 太い線。古い設備。


 そこに何か意味があるのかもしれない。


 今の主人公には分からない。


 分からないものを、分かったことにはしなかった。


 医務区画の前をもう一度通った。


 小さな子どもが咳をしていた。母親らしい女が、その背中をさすっている。


 担当者が薬箱を渡した。


「朝と晩」


「はい」


 さっき姉が手に取ったものと同じ箱だった。


 地上のもの。


 子どもはそんなことを知らない顔で受け取った。


「あれで治る?」


 主人公が聞く。


 担当者は箱を棚へ戻しながら答えた。


「治るために使う」


「地上のなのに?」


 担当者が主人公を見る。


「薬に地上も地下も書いてない」


「箱には書いてある」


「飲むやつの身体には書いてない」


 主人公は子どもを見る。


 母親が薬をしまい、子どもの手を取る。


 いつもの光景だった。


 さっきまでと同じなのに、見え方だけが少し違う。


「驚いた?」


 姉が聞く。


「うん」


「嫌?」


 主人公はすぐには答えなかった。


「分かんない」


「そっか」


「でも」


 子どもが母親と通路の向こうへ歩いていく。


「なくなったら困る」


「うん」


 主人公は棚をもう一度見た。


 地下で使う薬だった。


 地上で作られた薬でもあった。


 どちらか片方にしなくても、箱は同じ場所に置かれていた。

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