第48話 弟の部屋
「ここ」
主人公が足を止めた。
姉はその横から奥を覗き込む。
「ここ?」
「うん」
「部屋?」
「うん」
「扉は?」
「ない」
「壁は?」
「ある」
「半分しかないけど」
「半分でも壁」
姉は頭上も見た。
「天井、低いね」
「知ってる」
「さっきから全部それ言うね」
「毎日見てるから」
寝床と、小さな棚。壁際には工具箱があり、畳んだ服と補修用らしい布が積まれている。人ひとりが暮らすには足りているが、地上の部屋を見たあとでは、主人公自身にも少し狭く見えた。
姉は入口で止まったままだった。
「入っていい?」
「見に来たんだろ」
「そうだけど。部屋は部屋でしょ」
「いいよ」
そこで初めて姉が一歩入る。
「狭い」
「今日二回目」
「だって狭い」
「寝るだけだから」
「本当に?」
「あと読む」
「何を?」
「いろいろ」
「どこにあるの」
主人公が棚を指す。
姉は並んだ本を数えた。
「三冊」
「いろいろ」
「三冊で?」
「何回も読める」
「強いな」
「何が」
姉が一冊を抜いた。
「これ何?」
「配管」
「配管?」
「保守のやつ」
「面白い?」
「必要」
「面白い?」
「……少し」
「好きなんじゃん」
「違う」
「好きなんじゃん」
「戻せ」
笑いながら姉が本を棚へ戻す。
「そこじゃない」
「どこ?」
「右」
「ここ?」
「もうちょい」
「細かい」
「姉ちゃんの家も皿の場所、細かかっただろ」
「生活ってそういうもの」
「じゃあ俺も同じ」
「はいはい」
言ってから、姉はもう一度棚を見た。
生活ってそういうもの。
何でもない言葉だったのに、主人公には少しだけ残った。
姉の視線が棚の下の箱へ移る。
「これ、開けていい?」
「駄目」
「何入ってるの?」
「駄目」
「怪しい」
「普通」
「普通なら見せられるでしょ」
「その理屈おかしい」
姉は箱へ伸ばしかけた手を、すぐ引いた。
「じゃあ見ない」
「……見ないの?」
「駄目なんでしょ」
「うん」
「じゃあ見ない」
「……そう」
「何。見てほしかった?」
「違う」
「顔」
「姉ちゃん、それ禁止」
「何で」
「便利すぎる」
姉が笑う。
箱は閉じたままだった。
その少し上、壁についた細い傷を姉が見つける。
「これ何?」
「工具飛ばした」
「何で?」
「失敗した」
「怒られた?」
「親父に」
「何て?」
「壁より先に手を見られた」
姉の顔から笑いが消えた。
「怪我したの?」
「ちょっと」
「それから?」
「手当てされてから怒られた」
「……そっか」
「うん」
それだけだった。
姉は傷へ触れなかった。主人公も、そのとき何歳だったかまでは話さなかった。
次に姉が見つけたのは、寝具の端に当てられた布だった。
「これ、自分で縫った?」
「親父」
「上手」
「下手」
「下手なの?」
「近くで見るな」
言われて、姉は顔を寄せた。
「あ、本当だ。下手」
「だろ」
二人で笑った。
上手に縫われた布なら、たぶんここまで話題にはならなかった。
「写真ないの?」
姉が部屋を見回す。
「ない」
「一枚も?」
「撮るものない」
「あなた」
「俺?」
「うん」
「自分撮ってどうする」
「そういうところ」
「何」
「別に」
姉は自分の端末を取り出した。
「撮る?」
「今?」
「今」
「部屋汚い」
「いつなら片付くの」
「……今度」
「じゃあ今でいいじゃん」
「何で」
「今の部屋だから」
姉が主人公の横へ並ぶ。
「近い」
「写真だから」
「もっと離れても撮れるだろ」
「顔、普通にして」
「普通」
「固い」
「これが普通」
「じゃあ笑って」
「無理」
「五歳のときは笑ってた」
「十八年前を持ち出すな」
言い返した瞬間に撮影音がした。
「今撮った?」
「撮った」
「最悪」
「見てないのに?」
「分かる」
姉が画面を確認する。
「悪くない」
「見せて」
「やだ」
「何で」
「私のだから」
「俺写ってる」
「弟だから」
「意味分からん」
取り返そうとすると、姉が端末を背中側へ逃がした。
さっきまで地下の音に肩を強張らせていた人間とは思えない。
「送る?」
「俺の端末ない」
「あ、そうだった」
「紙にできる?」
「できるよ」
「じゃあ……一枚」
「欲しい?」
「部屋に」
姉は主人公を見た。
今度は「顔」と言わなかった。
「分かった」
部屋の外から声がした。
「おーい。工具知らない?」
「俺の部屋」
「どれ?」
「棚の下」
顔を出した友人と姉の目が合った。
「あ」
「あ」
主人公は二人を見比べる。
「友達」
「たぶんって言ってた人?」
「何でそれ言うの」
友人の顔が主人公へ向く。
「たぶん?」
「違う」
「俺、たぶん?」
「姉ちゃん」
「本人に言えって言ったでしょ」
「今じゃない」
「俺、たぶん?」
「うるさい」
友人は棚の下から工具を拾い上げた。
「どうも、お姉さん」
「いつも弟がお世話になってます」
「それ親が言うやつ」
「姉だから」
「便利だな、それ」
「だろ」
「便利じゃない」
「便利」
主人公と友人の声が重なった。
「何で仲良くなるの」
友人が笑いながら出ていく。
その背中を見送って、姉が言った。
「友達じゃん」
「たぶん」
「まだ言う」
「本人には言わない」
「さっき聞かれてたよ」
「事故」
姉は呆れたように笑い、それから寝床を見た。
「ここで寝てたんだ」
「今も」
「十八年?」
「場所は何回か変わった」
「そっか」
姉は寝床へ勝手に座らなかった。
主人公も、何歳のときにどこで寝て、いつこの場所へ移ったのかを説明しなかった。
ただ、ここが今の弟の部屋だった。
「姉ちゃん」
「何?」
「狭い?」
「狭い」
「暗い?」
「暗い」
「嫌?」
姉は少し考えた。
「私は住みたくない」
「正直」
「でも」
棚を見る。本を見る。工具箱と、壁の傷と、下手な縫い目を見る。
「あなたがここで暮らしてるのは、分かった」
「暮らしてた、じゃなく?」
「今もだもんね」
「うん」
「現在形」
「そう」
主人公は笑った。
姉の家には、自分のための椅子が一つ増えた。
この部屋には、姉の場所はまだない。
それでよかった。
住むためではなく、見に来たのだから。
姉は見た。
主人公は、棚の下の箱を少しだけ奥へ押した。
「それ何?」
「見ないって言っただろ」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「それ私の台詞」
狭い部屋には、二人分の笑い声が少しだけ余った。




