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第47話 反対側


 約束の時刻より十分前から、主人公は大扉の内側にいた。


「まだ?」


「まだだ」


 訓練担当が壁の時計を指す。


「五分前にも聞いたぞ」


「時計ずれてるかも」


「ずれてない」


「地上の方が」


「合わせてある」


「そう」


「落ち着け」


「落ち着いてる」


「線を踏むな」


 見ると、待機位置を示す線からつま先が出ていた。


 主人公は一歩下がった。


 ほどなくして、外側の認証音が鳴る。


「来た」


「まだ開いてない」


「来た」


「分かったから線の内側にいろ」


 腹に響く低い音とともに、大扉が動き始めた。


 最初は一本の光だった。それが少しずつ太くなり、地下の薄暗さを切り開いていく。


 向こう側に姉が立っていた。


 昨日まで、自分が立っていた側。


「姉ちゃん」


 呼ぶと、姉が片手を上げた。


「来た」


「うん」


 警備が先に対応した。持ち物を確認し、滞在範囲と帰還時刻をもう一度説明する。身体へ触れる検査はない。


「途中で帰りたくなった場合は、弟さんへ伝えるか、こちらへ直接戻ってください」


「分かりました」


「俺にも言って」


「言うよ」


「我慢しないで」


「分かった」


「ほんとに」


「弟」


「はい」


 横で訓練担当がため息をついた。


「お前が一番落ち着け」


 姉が笑った。


 手続きが終わる。


 境界線を越えて、姉が地下へ一歩入った。


 主人公は思わず足元を見る。


「何?」


「いや」


「爆発すると思った?」


「思ってない」


「顔」


「姉ちゃんもそれ言う」


「姉だから」


「便利に使うなよ」


 大扉が閉まり始めた。


 姉が振り返る。


 地上の光が細くなっていく。最後の一本まで消えた瞬間、金属の噛み合う音が腹の奥まで響いた。


 姉の肩が跳ねる。


「姉ちゃん?」


「大丈夫」


 返事が早かった。


 主人公は続けて何か言いかけ、やめた。


 姉の呼吸が少し浅い。


「ここで待つ?」


「……ちょっとだけ」


「うん」


 二人は扉から少し離れた場所に立った。


 主人公には知っている空気だった。冷たく湿っていて、油と金属と水の匂いが混ざっている。


 姉は鼻を押さえなかった。ただ、一度ゆっくり息を吸った。


「匂う?」


「うん」


「くさい?」


「ちょっと」


「俺も昨日、帰ってきたとき思った」


「住んでるのに?」


「外から戻ると分かる」


「じゃあ、あなたも鼻は地上かぶれしたんだ」


「鼻だけ?」


「今のところ」


 姉が笑う。そのぶん肩が少し下がった。


「行けそう?」


「うん」


「戻りたくなったら戻るからね」


「分かってる」


 主人公は先へ歩き出した。


 地下の通路は狭い。頭上を太い配管が走り、照明と照明の間には薄い影が溜まっている。靴音は壁へ当たって、少し遅れて返ってきた。


 姉が上を見る。


「頭ぶつけないで」


「あなたより背低いよ」


「そこじゃなくて、配管」


「見えてる」


「初めてだろ」


「初めてでも見える」


「そっか」


「地上に行ってもそこ変わらなかったね」


「何が」


「心配性」


「違う」


 言いながら数歩進み、主人公は振り返った。


 姉はちゃんと後ろにいる。


「ほら」


「何」


「何でもない」


 また歩く。


 角を曲がると、人がいた。


 姉を見る。主人公を見る。また姉を見る。


 視線が長い。


 主人公は姉の横へ並んだ。


「見すぎ」


「お前も地上で見てたろ」


 相手が言う。


「……見てた」


「なら同じだ」


「同じだから、やめろって言ってる」


 相手は少しだけ目を逸らした。


 通り過ぎてから、姉が小声で聞く。


「今の、知り合い?」


「顔だけ」


「そう」


「嫌だった?」


「見られるのは慣れてる。でも、好きではない」


「そっか」


 主人公はそれ以上、代わりに怒らなかった。


 階段の前で姉が止まった。


「まだ下?」


「うん。二階分くらい」


「地上の二階?」


「たぶん」


「たぶん?」


「ここ、階って言わないから」


 姉は階段の先を見る。照明はあるが、下へ行くほど出口が遠ざかるように見える。


「戻る?」


「まだ」


「休む?」


「少し」


「分かった」


 主人公は壁際へ寄ったが、姉を急かさなかった。


 しばらくして、姉が口を開く。


「狭いね」


「うん」


「暗い」


「うん」


「音が全部近い」


「うん」


「あなた、平気なんだ」


 主人公は天井を見た。


「ここだと落ち着く」


「私は、ちょっと怖い」


「大丈夫」と言いそうになった。


 やめた。


 怖いと言っている人間に、怖くないと教えても意味がない。


「そっか」


 姉が主人公を見る。


「変?」


「何が」


「姉なのに、あなたの家が怖いって」


「俺も姉ちゃんの家、最初変だった」


「怖かった?」


「椅子の場所分からなかった」


「それは怖いじゃない」


「俺にはまあまあ怖い」


 姉が吹き出した。


「何それ」


「勝手に座ったら駄目かと思った」


「誰も怒らないよ」


「今は知ってる」


 笑ったあと、姉はもう一度深く息を吸った。さっきより少し長い。


「行ける?」


「うん」


「無理なら」


「帰る」


「俺が」


「分かってる。ちゃんと帰してくれるんでしょ」


「うん」


「じゃあ、もう少し行く」


 三番線へ続く通路に入る。


 主人公はいつもの速度で歩きかけたが、後ろの足音が少し遅いことに気づいた。


 速度を落とす。


「合わせなくていいよ」


「俺が早い」


「いつもこれ?」


「うん」


「地下の人、せっかち」


「地上が遅い」


「はいはい」


 分岐に差しかかると、主人公は迷わず右へ曲がった。姉は一度、左と後ろを見比べる。


「これ、迷うね」


「俺いるから」


「いなくなったら?」


「ならない」


 答えてから、昨日決めた条件を思い出した。


「でも、帰る方向はこれ」


 壁の表示を指す。


「この線を追えば大扉」


「これ?」


「うん」


 姉は表示をしばらく見た。


「覚えとく」


「俺いるけど」


「自分でも帰れる方がいいでしょ」


「……うん」


 主人公は頷いた。


 やがて、三番線の生活音が聞こえてくる。


 皿の触れ合う音。工具の金属音。誰かの話し声。主人公にはいつもの雑音だった。


 姉はそれを聞きながら、また一度深く息を吸う。


「もうすぐ」


「うん」


「俺の家」


 姉は前を見る。


 まだ少し怖そうだった。


 それでも、自分の足でここまで来た。


「見に来た」


 姉が言う。


 主人公は笑った。


「うん」


 昨日、主人公は大扉の内側へ戻った瞬間、身体から力が抜けた。


 今日、姉は同じ場所で身体に力を入れた。


 同じ場所でも、身体が覚えているものは違う。


 主人公はもう振り返って確認せず、姉の歩幅に合わせて三番線へ向かった。

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