第45話 ただいま
大扉は、外から見るとやはり大きかった。
初めて地上へ出た日には、その厚さの向こうに何があるのか分からなかった。いまは逆側に、何があるのか知っている。
「開けて」
認証を済ませる。
しばらくして、腹に響くような重い音がした。扉の継ぎ目が動き、細い隙間から地下の暗さが見える。
主人公は息を吐いた。
中へ入る。
冷たく湿った空気。金属と油と水、それから少しだけ黴の匂い。
「……くさ」
自分で言って、笑った。
知っている匂いだった。
背後で大扉が閉じていく。夕方の空が細くなり、最後には完全に消えた。
その瞬間、主人公の肩から力が抜けた。
「あ」
気づいてから、もう一度息を吸う。
深い。
地上の空にも、広さにも、光にも、だいぶ慣れたと思っていた。それでも、低い天井の下に配管が走り、足音が壁へ返ってくるこの場所では、身体の方が先に警戒を解いた。
帰ってきたのだと、頭より先に身体が知っていた。
「おい」
声に振り向く。
通路の向こうに訓練担当の男が立っていた。
「……ただいま」
男は早足で近づいてくる。
「遅い」
「ごめん」
「連絡は」
「した」
「足りん」
「何が」
「全部だ」
怒鳴られる、と身構えたところで、肩を強く掴まれた。
「生きてたな」
「うん」
「馬鹿」
「うん」
「本当に、馬鹿」
男が一度だけ顔を背ける。
主人公は、いつものように言い返さなかった。
しばらくして男が手を離す。
「姉は」
「いた」
男の顔が戻る。
「生きてた」
「そうか」
「会った」
「そうか」
「……共生人だった」
男の表情がわずかに硬くなる。
主人公はそれを見逃さなかった。
けれど最初に返ってきたのは、別の言葉だった。
「生きてたんだな」
「うん」
「なら……」
男はそこで止めた。
主人公も続きを求めなかった。
今は、それでよかった。
足音が近づいてくる。
「帰ったか」
養父だった。
主人公の顔を見て、次に肩、腕、足へ視線を走らせる。
「ただいま」
「怪我は」
「ない」
「飯は」
「食べた」
「いつ」
「昼」
「今は夜だ」
「姉ちゃんの家でも食べた」
「何を」
「いろいろ」
「いろいろじゃ分からん」
「何で帰還報告が献立になるの」
「座れ」
「腹減ってない」
「座れ」
「はい」
三番線のいつもの机へ連れていかれる。
端が欠けた椅子があった。
昨日、姉の家では自分のために一脚増やしてもらった。
ここでは誰も増やさない。
自分の椅子は、最初からそこにある。
腰を下ろすと、養父が皿を置いた。
「これ、多い」
「減った」
「嘘」
「痩せた」
「痩せてない」
「地上は信用ならん」
「食べ物まで?」
「お前が食べたと言う量が信用ならん」
「そっちか」
仕方なく口へ運ぶ。
濃い。
「しょっぱい」
「地上かぶれ」
「関係ないだろ」
言いながら、もう一口食べた。
帰還を聞きつけた人間が、少しずつ机の周りへ集まってきた。
「本当に戻った」
「本物?」
「触るな」
「地上どうだった?」
「空でかかった?」
「姉さんは?」
声が重なる。
「一個ずつ」
「じゃあ姉さん」
主人公は箸を置いた。
「生きてた」
一瞬だけ静かになる。
「会えた」
誰かが息を吐いた。
「よかったな」
「うん」
「連れてきたのか?」
「いや」
空気が少し変わった。
「何で」
奥から声が飛ぶ。
昔から地上を信用していない男だった。大扉をくぐる前にも、主人公へ何度も警告してきた人間だ。
「共生人になってたからか」
「違う」
主人公は即答した。
自分でも驚くほど早かった。
男が眉を寄せる。
「じゃあ何でだ」
「姉ちゃんの家があるから」
「ここが家だろ」
「俺の家はここ」
主人公は机を指で軽く叩いた。
「姉ちゃんの家は地上」
「そんなもの」
「ある」
声を荒らげる必要はなかった。
「見たから」
男が黙る。
その男が主人公の帰還を喜んでいなかったわけではない。大扉の近くで姿を見つけたとき、誰より大きな声で主人公の名を呼んだのも彼だった。
だからこそ、主人公はその喜びと地上への憎しみを、同じものにはしなかった。
「飯が冷める」
養父が割って入った。
「今その話か」
男が不満そうに言う。
「帰ってきた日にする話じゃない」
「いつする」
「食ってから」
「結局するんだ」
「する。だが今は食え」
「はい」
男も渋々近くへ座った。
「俺の分は」
「ない」
「何でだ」
「自分で取れ」
周囲から笑いが漏れる。
主人公も笑った。
その夜、自分の寝床へ戻った。
狭く、低く、古い。壁際には置いたままの工具があり、寝具の端には自分でつけた小さな傷が残っている。
十八年分の場所ではない。
それでも、ここには自分の時間が積もっている。
横になると、天井が近かった。手を伸ばせば届きそうな距離にある。
「ただいま」
今度は誰にも聞かせずに言った。
ポケットから紙を取り出す。
姉にもらった連絡先。
その隣には、長いあいだ持っていた古い番号の紙がある。
一枚は、姉を探すために持っていた。
もう一枚は、これから姉と話すために持っている。
新しい紙を枕元へ置いた。
古い紙も捨てなかった。
目を閉じる。
姉の家では、自分のために椅子が一つ増えた。
ここでは、自分の椅子が最初からあった。
どちらかを偽物にしなくてもいい。
少なくとも今夜は、それを決めなくても眠れる。
配管を流れる水の音がする。遠くで誰かが笑っている。
主人公の身体は、もうどこにも力を入れていなかった。




