↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/95

第44話 どこに?


 写真の箱を棚へ戻したころ、窓の外はもう夕方の色になっていた。


「もうこんな時間」


 姉が時計を見る。


「早い」


「ずっと話してたからね」


「まだ全然だけど」


「十八年分だよ。今日中に終わると思ってた?」


「ちょっと」


「無理」


 姉は笑って、空になったカップを重ねた。


「泊まる?」


「え」


「部屋はないけど。布団なら何とかなると思う」


「違う」


「何が?」


 主人公は姉を見る。


 写真を見ているあいだ、何度か言いかけていたことがあった。


 姉を見つけたら言うつもりだった言葉。


「姉ちゃん」


「何?」


「帰ろう」


 姉の手が止まった。


「……うん?」


「一緒に」


 姉は少しだけ眉を寄せる。


「どこに?」


 主人公は口を開いた。


 地下に。


 そう答えるはずだった。


 それしか答えはないと思っていた。


 けれど声にならない。


「……」


「地下?」


 姉は責めるようには言わなかった。


「たぶん、それを言おうとしたんだよね」


「うん」


「じゃあ、何で止まったの」


「分かんない」


 主人公は食卓を見る。


 さっき自分のために増やされた椅子は、三人の椅子と同じ向きに揃っている。


 地下には三番線がある。寝床がある。養父がいる。訓練担当がいる。工具も、配管も、いつもの飯もある。


 暗くて、狭くて、湿っている。


 自分の家だ。


 帰る場所だ。


 でも、姉の家かと聞かれたら、もう同じ勢いでは頷けない。


「昔の家でもない」


 主人公が呟いた。


「うん」


「あそこ、もう他の人が住んでた」


「うん」


「道は覚えてたのに」


「覚えてたね」


 門の向こうにあった子供の傘を思い出す。


 あの家を返せとは言えなかった。


 そして、この家には姉のパートナーがいて、子供がいて、写真があって、洗った皿をしまう棚の場所まで決まっている。


 姉が十八年の途中で作った生活がある。


「姉ちゃんは、帰りたくないの」


 姉はすぐには答えなかった。


「だから、どこに?」


 同じ問いが返ってくる。


 主人公は少し苛立った。


「質問で返すなよ」


「だって分からないんだもん。昔の家? 地下? それとも別の意味?」


「別の意味って」


「例えば、人間だったころに戻るとか」


 主人公は黙った。


 それも混ざっていた。


 地下へ。


 昔の家へ。


 人間へ。


 姉を見つけるまで、その全部を《帰る》という一つの言葉へ押し込んでいた。


「ここは?」


 主人公が聞いた。


「家だよ」


 姉は迷わなかった。


 胸の奥が痛む。


 けれど姉は勝ち誇らない。自分の答えを弟へ押しつけもしない。


「地下にも人がいる」


「うん」


「俺を育てた人」


「うん」


「友達もいる」


「うん」


「さっき話したやつら」


「工具返さない人?」


「そいつも」


「じゃあ、あなたの家なんだね」


「……うん」


 主人公は顔を上げた。


「否定しないの」


「何で?」


「地上の人だから」


「見てもない場所を、あなたが家だって言ってるのに、私が違うって言うの?」


「でも、共生人じゃない」


「家って、そういうので決まるの?」


 主人公は答えられなかった。


 姉が地下を否定したら、怒れた。


 この家を偽物だと言えたなら、姉の手を取って連れていけた。


 昔の家が空いたまま待っていたなら、二人で戻れた。


 どれもない。


「俺、姉ちゃんを連れて帰るために地上へ来た」


「うん」


「ずっと、それで」


「うん」


「見つけた」


「うん」


 主人公は自分の手を見る。


 何も掴んでいない。


「でも、帰る場所が一個だと思ってた」


 姉が何か言おうとした。


「待って」


「何?」


「今、答え言わないで」


「答え持ってないよ」


「姉ちゃんなら持ってそうだから」


「買いかぶり」


「姉ちゃんだから」


「それ、理由になってない」


「知ってる」


 二人とも少し笑った。


 主人公は立ち上がった。


「帰る」


 姉が玄関までついてくる。


 靴を履いていると、頭の上から声がした。


「どこに?」


 まただ。


 主人公は顔を上げる。


 今度は止まらなかった。


「地下」


「うん」


「俺の家に」


「うん」


 その返事だけでよかった。


「また来る?」


「来る」


「いつ?」


「分かんない」


「連絡先は?」


「あ」


 姉が呆れた顔をする。


「そこから?」


「持ってない」


「本当に?」


「地下だから」


「便利な言葉にしない」


「はい」


 姉は紙とペンを持ってきて、番号と連絡方法を書いた。


「なくさないで」


「紙は得意」


「泥つけるくせに」


「何で知ってる」


「見えてる」


 主人公のポケットから、例の記録が少しだけ覗いていた。


 慌てて押し込む。


「これは別」


「はいはい」


 新しい紙も、その隣へしまった。


 扉を開けると、夕方の空気が入ってくる。


 主人公は外へ一歩出た。


「姉ちゃん」


「何?」


 《帰ろう》とは、もう言わなかった。


「また」


「うん。また」


 主人公は歩き出した。


 角まで来て、振り返る。


 姉はまだ玄関先にいた。


 主人公が手を上げると、姉も上げた。


 昔みたいに手を握ってはいない。


 離れないように掴んでもいない。


 それでも、互いの姿は見えている。


 主人公は地下へ帰る。


 姉を置いていくのではない。


 姉は、自分の家に残る。


 その違いを、まだ全部は飲み込めない。


 けれど《帰る》という言葉だけは、もう同じではなかった。


「帰る」


 主人公は今度、自分の行き先としてそう言った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。