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第43話 ずっとじゃない


 子供が寝る支度を始めたころ、姉は居間の棚から古い箱を下ろした。


「見る?」


「何を」


「昔の写真」


 主人公は少し身構えた。


「俺の?」


「私の」


「姉ちゃんか」


「何で残念そうなの」


「残念じゃない」


 姉は疑わしそうな顔をしながら箱を開いた。


 一番上にあったのは学校の写真だった。


 知らない制服。知らない校舎。知らない人たち。その真ん中に、今よりずっと幼い姉がいる。


「これ何歳」


「十二」


「俺、知らない」


「そりゃそうでしょ」


 次の写真を取る。


「これは?」


「十五」


「こっちは」


「十九」


「髪ひどい」


「箱閉じるよ」


「ごめん」


 姉が笑った。


 主人公も写真をめくる。


 十二歳。十五歳。十九歳。


 自分の知らない時間の中で、姉は何度も服を変え、髪を変え、隣にいる人を変えていた。


 どの写真にも自分はいない。


 それでも姉はいる。


「探した?」


 口から出ていた。


 姉の指が写真の端で止まる。


「うん」


「どれくらい」


「長いよ」


「十八年?」


 姉はすぐには答えなかった。


 箱の中を見たまま、静かに言う。


「ずっとじゃない」


 主人公は手にしていた写真を置いた。


「……やめたの」


「うん」


「俺を?」


「捜すのを」


「同じだろ」


「同じじゃないよ」


 姉は箱を閉じなかった。


「最初は毎日だった。保護施設の名簿も見たし、避難先にも問い合わせた。旧住所の記録も追った」


「大人になってからも?」


「したよ」


「じゃあ」


「でも、ずっとじゃない」


 二度目は、最初よりはっきりしていた。


「何で」


「生きなきゃいけなかったから」


 主人公は黙る。


「学校もあった。仕事も始めた。友達もできた」


「探しながらできる」


「できるよ」


「じゃあ」


「できる。でもね」


 姉は一枚の写真を指で押さえた。制服姿で、何人かと肩を並べて笑っている。


「毎日起きて、今日も弟が見つからなかったって確認して、それだけで一日を終えて寝る生活を、一生はできなかった」


 主人公は反論しようとした。


 胸の中には、確かに引っ掛かるものがある。


「俺は」


「うん」


「ずっと……」


 そこで止まった。


 姉をずっと待っていた。


 そう言えば簡単だった。


 けれど地上へ出たのは最近だ。


 それまでは地下にいた。


 朝になれば起きた。配管を直した。訓練で怒鳴られた。腹が減れば飯を食った。壊れた暖房に悪態をつき、怪我をして養父に怒られた。友人と喧嘩もした。工具を貸したまま返さないやつに文句も言った。


 笑ったことだって、ある。


 姉だけを見て十八年を過ごしたわけではない。


「……俺も」


 姉が待つ。


「ずっとじゃない」


 口にすると、少しだけ苦かった。


 けれど嘘ではなかった。


「地下で住んでた」


「うん」


「育ててもらった」


「誰に?」


「親父」


 言ってから、主人公は止まった。


 姉も止まる。


「親父?」


「本当の父親じゃない」


「それは分かる」


「分かるの」


「顔」


「また?」


「また」


 姉が少し笑った。


「どんな人?」


 主人公は考える。


「飯を食わせる」


「それだけ?」


「寝ろって言う」


「それだけ?」


「怪我すると怒る」


「いい人?」


 今度は少し長く考えた。


「うん」


 即答ではなかった。それでも、答えは出た。


「友達もいる」


「うん」


「訓練担当も」


「それは友達?」


「違う」


「じゃあ何」


「訓練担当」


「そのままじゃん」


「名前はある」


「知ってるよ」


「工具直すやつもいる」


「友達?」


「たぶん」


「本人に言ってあげなよ」


「嫌だ」


 姉が声を立てて笑った。


「生きてたんだね」


「生きてた」


「待ってただけじゃなく」


 その言葉は少し嫌だった。


 待っていたことまで薄くされた気がしたからだ。


 主人公は写真の箱を見る。


「待ってたよ」


「うん」


「忘れてない」


「うん」


「でも、腹も減ったし、風邪もひいた。仕事もした。必要とされたかったし、失敗もした」


 姉は何も挟まない。


「だから……待ってただけじゃない」


「うん」


 今度の相槌は、さっきより少し小さかった。


 十八年は空白ではない。


 姉のいない十八年だった。


 同時に、姉以外のものがあった十八年でもある。


「私もね」


 姉が写真を一枚、箱へ戻した。


「忘れたわけじゃない」


「うん」


「捜すのをやめた時期がある」


「うん」


「それで、自分を最低だと思った」


 主人公は姉を見る。


「何で」


「弟がどこかにいるかもしれないのに、普通に笑えたから」


 主人公はさっきの学校写真を見た。


 姉が知らない誰かと笑っている。


 以前の自分なら、その写真を嫌ったかもしれない。


「……笑えばいいだろ」


 姉が目を上げる。


「俺も笑ってた」


「地下で?」


「たぶん」


「たぶん?」


「十八年ずっと暗い顔してたら、親父に殴られてる」


「殴る人なの?」


「例え」


「びっくりした」


「怒鳴るくらい」


「それも心配なんだけど」


「そこじゃない」


 姉がまた笑った。


 主人公も笑う。


「今も笑ってる」


「そうだね」


 写真をまためくる。


 主人公はもう、そこに自分がいないことだけを探さなかった。


「これ誰」


「友達」


「今も?」


「今も」


「これは」


「職場の人」


「これ」


「パートナー。昔」


「若い」


「言わないで」


「姉ちゃんも」


「言わないで」


 次の写真には、もっと幼い子供が写っていた。


「これ」


「分かるでしょ」


「うん」


 さっき自分を《おじさん》と呼んだ子供だった。


 写真を箱へ戻す。


 姉は蓋を閉じた。


 主人公は十八年を、捜していた時間と、捜していなかった時間の二つだけに分けるのをやめた。


 姉は生きていた。


 自分も生きていた。


 それぞれに、自分の知らない日が積み重なっている。


「姉ちゃん」


「何?」


「見つかったな」


 姉は少しだけ目を細めた。


「うん」


「今」


「うん」


 十八年全部が、この瞬間のためにあったわけではない。


 それでも十八年の先で、二人はいま同じ箱に手を置いていた。

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