第42話 姉の家
玄関で鍵の回る音がした。
「ただいま」
姉ではない声だった。
主人公は反射的に立ち上がる。姉は座ったまま、空になったカップを見ていた。
「おかえり。早かったね」
「うん。予定より一本早くて」
廊下から現れた人が、居間の入口で止まった。
主人公を見る。
主人公も見る。
「……あ」
姉がようやく立った。
「帰ってきた」
「それは見れば分かる」
「違う。この人」
姉は主人公を指した。
「弟」
「え?」
短い沈黙が落ちた。
相手の視線が主人公の顔から服へ移り、また顔へ戻る。主人公も同じように相手を見ている自分に気づいた。
「弟?」
「うん」
「今日?」
「今日」
「連絡は?」
「する暇なかった」
「そう」
驚いている。当然だ、と主人公は思った。自分だって今朝まで、今日この家で姉と茶を飲むとは思っていなかった。
相手が先に頭を下げた。
「初めまして」
「……初めまして」
「話は聞いてます」
「何を」
姉が口を挟む。
「いっぱい」
「どこまで」
「五歳で野菜を皿の下に隠した話とか」
「何でそれを選ぶんだよ」
相手が吹き出した。
「本人だ」
「何でそれで分かる」
「反応が聞いてた通りなので」
「最悪」
姉が笑う。
主人公は相手をもう一度見た。
「この人、私のパートナー」
「知ってる」
「会ったことないでしょ」
「記録にあった」
「ああ」
「勝手に見たんじゃない」
「分かってるって」
主人公は言葉を探した。
「姉ちゃんの……パートナー」
「はい」
そこから先が続かない。
姉が十八年のあいだに得たものの一つが、紙の文字ではなく目の前に立っている。そう思うと、急に何を言えばいいのか分からなくなった。
相手は急かさなかった。
「荷物置いてきます」
それから姉へ視線を移す。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
「大丈夫」
「じゃあ、着替えてくる」
廊下の奥へ消えていく。
主人公は声を落とした。
「何が大丈夫なの」
「あなたが来たこと」
「嫌だった?」
「違う。びっくりしてるだけ」
「俺も」
「知ってる」
姉がカップを片づけようとした、そのときだった。
廊下を走る軽い足音が近づいてきた。
「おかえりー!」
小さな子供が飛び込んでくる。姉へ抱きつき、そのまま見慣れない主人公に気づいて止まった。
主人公も固まる。
紙には《子供》としか書かれていなかった。
「この人だれ?」
姉は主人公を見た。
「私の弟」
「弟?」
「そう」
子供が頭から足まで主人公を眺める。
「ちっちゃくない」
「大きくなったから」
「弟なのに?」
「弟でも大きくなる」
「ふーん」
主人公は少し遅れて口を開いた。
「……こんにちは」
「こんにちは」
子供は姉を見上げた。
「おじさん?」
「おじ……」
言葉が胸に刺さった。
姉が笑う。
「そう。あなたのおじさん」
「俺、おじさんなの」
「記録で子供がいるって知ったときも、その顔した?」
「何で分かる」
「顔」
子供は主人公の周りを一周した。
「ママに似てる?」
「似てない」
即答すると、姉が眉を寄せる。
「そこは少しくらい悩んで」
「でも口は似てる」
「口?」
「嫌なとき、左だけ下がる」
「下がってない」
子供が姉の顔を覗き込んだ。
「下がってる」
「下がってない!」
主人公が笑う。子供もつられて笑った。
「二対一はずるい」
姉だけが不満そうだった。
しばらくして、食卓に一脚の椅子が増えた。
パートナーが椅子を運びながら尋ねる。
「これでいい?」
「俺?」
「あなた以外に誰が」
「あ」
主人公は座った。
向かいに姉。隣に子供。その隣にパートナー。
三人の場所は、最初から決まっていたように自然だった。
自分の椅子だけが今日増えた。
「苦手なものあります?」
「ない」
姉がすぐ口を挟む。
「嘘」
「今はない」
「昔はあった」
「五歳だろ」
「野菜」
「言うな」
パートナーが料理を置きながら頷く。
「なるほど。今日、野菜多いです」
「帰る」
「帰らないでください」
姉が笑い、主人公も笑った。
「冗談」
口にしてから、《帰る》という言葉が少しだけ引っ掛かった。
どこへ。
考えかけて、やめる。
今はまだ、この食卓にいる。
食事は拍子抜けするほど普通に進んだ。
子供が水をこぼし、姉が布巾を取る。パートナーがコップを避け、主人公も濡れそうになった皿を持ち上げた。
「ありがとう」
「うん」
誰が人間で、誰が共生人か。見れば分かる部分も、主人公には判断できない部分もある。
けれど食卓では、そんな分類より先に声が飛ぶ。
「それ取って」
「どれ」
「そっち」
「これ?」
「それ」
それで足りた。
食後、子供が主人公の椅子の横へ来た。
「どこに住んでるの?」
「地下」
「地下?」
「うん」
「電車?」
「違う」
「お店?」
「違う」
「じゃあ何?」
「家」
子供は本気で分からない顔をした。
「地下に家あるの?」
「ある」
「暗くない?」
「暗い」
「やだ」
「慣れる」
「やだ」
「そう」
姉もパートナーも口を挟まない。
地下を怖い場所だと訂正することも、主人公に説明を求めることもしなかった。
子供が別の部屋へ行くと、姉は食器を片づけ始めた。
主人公も立つ。
「やる」
「客でしょ」
「できる」
「じゃあ、これお願い」
皿を渡された。
台所まで運んだものの、置き場所が分からない。
「どこ」
「そこ」
「ここ?」
「違う、上」
「分かるか」
姉が笑う。
「慣れて」
主人公の手が止まった。
「何?」
「いや」
姉はもう次の皿を洗っている。
《慣れて》。
この家に。
そういう意味だったのかは分からない。だから聞かなかった。
代わりにパートナーが隣へ来たとき、主人公は別のことを聞いた。
「さっき」
「はい」
「急に来て、嫌じゃないの」
「驚いてます」
「それは見た」
「正直ですね」
「姉ちゃんにも言われる」
「似てる」
「似てない」
「そこも聞いてます」
主人公は嫌な顔をした。
パートナーは少し笑ってから、姉の方を見た。
「でも、彼女が会いたいなら、私はそれでいいです」
「それだけ?」
「最初は」
「最初?」
「十八年ぶりなんでしょう。私が先に決めることじゃない」
主人公も姉を見る。
姉は洗った皿を棚へ戻している。どこへ何を置くのか迷わない。
この家で、たぶん何度も繰り返してきた動きだった。
「姉ちゃんが決めたから」
「はい」
また、それだった。
第41話で聞いた《私が受けたの》と、形は違うのにどこかで繋がっている。
「分かった」
今度は少し早く言えた。
食卓へ戻る。
主人公のために増やされた椅子が、一脚だけ少し斜めを向いていた。
姉の家。
昔の家ではない。地下でもない。奪われた家でも、仮の場所でもない。
主人公がいなかった十八年の途中で、姉が誰かと作った家だった。
今日まで、そこに主人公の場所はなかった。
それは当然だった。
主人公は椅子の背へ手を掛け、三人の椅子と同じ向きになるよう少しだけ直した。
それから、もう一度座った。




