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第41話 されたんじゃない


 姉が置いた茶から、細い湯気が上がっていた。


「冷めるよ」


「うん」


 主人公は答えたまま、カップに触れなかった。


 向かいに座った姉が一口飲む。


「さっきから、それしか言ってない」


「うん」


「ほら」


「……分かってる」


 姉が笑った。


「変わってないね」


「変わった」


「どっちなの」


「知らない」


「私も」


 十八年ぶりに会った弟を前にしても、姉は全部分かったような顔をしなかった。


 主人公はポケットから、何度も開いた紙を取り出した。


「何、それ」


「記録」


「何の?」


「姉ちゃんの」


 姉の眉が上がる。


「勝手に見たの?」


「違う。手続きした」


「ならいいけど」


「よくない」


「何が?」


 主人公は紙を開き、《本人申請》の文字へ指を置いた。


 姉はそこを見て、小さく「ああ」と言った。


「ああ?」


「うん」


「これ、姉ちゃんの?」


「私の」


「本人申請って」


「書いてある通りだよ」


 主人公はそこで初めて茶を飲んだ。


「熱っ」


「だから冷めるって言ったのに」


「今それいい」


「よくないよ。火傷する」


 姉は平然と茶を飲んでいる。その平静さが、主人公には理解できなかった。


「姉ちゃんが申請した?」


「うん」


「自分で?」


「そう」


「誰かに言われて?」


 姉がカップを置いた。


「何を聞きたいの?」


 主人公は答えようとして、口を閉じた。聞きたいことなら山ほどある。けれど最初に出たのは、質問ではなかった。


「されたんだろ」


 姉の目が止まった。


「移行。姉ちゃんも、あのとき地上に残って、捕まって、それで……」


「違うよ」


「でも」


「されたんじゃない」


 姉は主人公をまっすぐ見た。


「私が受けたの」


 部屋の時計が秒を刻んでいる。


 主人公は紙へ目を落とした。《本人申請》の文字は一つも変わっていない。なのに、本人の口から同じ意味を聞いたあとでは、紙の重さまで変わった気がした。


「何で」


「話すよ」


「何で受けた」


「だから、話す」


「誰かに言われた?」


「言われたことなら、いっぱいある」


「脅された?」


「そういう話じゃない」


「じゃあ何」


「順番」


 その言い方に、主人公は口を閉じた。


「最初は嫌だった」


 主人公はすぐ顔を上げる。


「ほら」


「ほらって何」


「嫌だったんだろ」


「嫌だったよ」


「じゃあ」


「最後まで聞いて」


 遮られ、主人公は唇を噛んだ。


「移行期に何があったか、私は覚えてる。無理やりされた人も見た。怖かったし、私も何度も断った」


 主人公にも記録の文言は残っている。《本人意思:拒否》《処置見送り》。それは、自分が信じてきた地上の話とよく似ていた。


「だったら、何で」


「そのあとも生きたから」


「……何」


「保護されて、学校へ行って、働いた。友達もできた。病気もしたし、治った。喧嘩して、引っ越した。そういうのをやってる間に、考え方も変わった」


「それで移行したくなるの?」


「一日でそうなったんじゃないってこと」


 主人公は紙を開き直した。以前は意味を考えず読み飛ばしていた項目が並んでいる。


《待機期間》

《再確認》

《本人申請継続》

《最終同意》


「何回も確認した?」


「うん」


「途中でやめられた?」


「やめられた」


「本当に?」


 姉は少し考えてから答えた。


「少なくとも、私が申請したときは、私はそう認識してた」


「何でそんな言い方するの」


「私が全部の場所、全部の時期、全部の人のことまで保証できないから」


「姉ちゃん自身は?」


「私は、自分で選べたと思ってる」


 主人公は黙った。


 もっと強く言い切ってほしかったのかもしれない。あるいは逆に、どこかに強制された証拠が混ざっていてほしかったのかもしれない。


「昔のこと、忘れたから?」


「忘れてない」


 返事は早かった。


「人間だったこと」


「覚えてる」


「俺のこと」


「覚えてた」


「家は?」


「覚えてるよ」


「なのに?」


 姉が首を傾けた。


「何で『なのに』なの?」


「だって、それを覚えてたら……」


「選ばないはず?」


 主人公は答えなかった。


「私が?」


「……うん」


 姉は怒らなかった。ただ、目の前にいる弟を見ていた。


「それは、あなたが思ってた私だね」


 胸の奥に鈍いものが刺さった。


「でも、姉ちゃんは被害者だろ」


「被害者だよ」


 今度は姉が即答した。


「家族と離された。怖い目にも遭った。あの時代にされたことまで、良かったなんて言わない」


「じゃあ」


「それと、これを私が選んだことは別」


 姉の指が、《本人申請》の文字の横に置かれた。


 主人公は紙と姉を交互に見た。


 被害者だったことと、自分で選んだこと。その二つは、どちらかを消さなければ並ばないものだと思っていた。


 けれど姉は消さない。


「戻れるの」


「何に?」


 主人公の胸が一度だけ強く跳ねた。


「身体の話なら、普通は無理だよ」


「そうじゃなくて」


 言いかけて止まる。


 自分は何へ戻ってほしいのか。


 地下へ。昔へ。人間へ。


 全部同じだと思っていたのに、姉の「何に?」を聞いた瞬間、ばらばらになった。


「……あとで」


「うん」


 姉は追わなかった。


 主人公は茶を飲む。


「冷たい」


「遅いから」


「姉ちゃん」


「何?」


「俺、まだ納得してない」


「うん」


「分かってもない」


「うん」


 姉は理解も賛成も要求しなかった。


 主人公は机の上の紙を見る。


「でも」


 今度は《本人申請》の文字を指で押さえなかった。


「姉ちゃんが選んだって言ったのは、聞いた」


 姉が少しだけ笑った。


「うん」


 主人公は紙を畳む。


 文字は消さない。


 自分に都合のいい意味にも書き換えない。


 ポケットへ戻した。


 理解できないままでも、姉が自分で選んだという事実だけは、姉のものとして持って帰ることにした。

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