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第40話 弟


 足音が、扉のすぐ向こうで止まった。


 鍵の回る音がする。


 主人公は、さっきまで開いていた手を握った。何を言うかはまだ決まっていない。名前を呼ぶのか、自分の名前を言うのか、それとも十八年ぶん何か説明するのか。


 扉が開いた。


「はい」


 女の人が立っていた。


 主人公は何も言えなかった。


 知らない顔だった。


 記憶にある姉の顔とは、何もかも違う。髪の長さも、頬の線も、目元も違う。当たり前だ。自分が五歳だったときから十八年が経っている。


 それでも、頭では分かっていたことが、目の前に人間の顔として現れると別だった。


「……どちらさまですか?」


 その声で、胸の奥が強く鳴った。


「姉ちゃん」


 女の表情が止まる。


「え?」


「姉ちゃん?」


 自信がなくなって、二度目は問いになった。


 女は主人公の顔を見た。肩へ視線を落とし、手を見る。また顔へ戻る。


「ちょっと、待って」


 一歩、外へ出てきた。


「名前は?」


 主人公は自分の名前を言った。


 十八年前、姉が呼んでいたはずの名前を。


 女の唇が開いたまま動かなくなった。


「……うそ」


「違う?」


「違わない。待って、顔見せて」


「見てるだろ」


「いいから」


 両手が伸びてきた。


 逃げる理由はないのに、主人公の肩がわずかに引ける。そのまま頬を左右から挟まれた。


 温かい。


 第38話で思い出した手とは違った。


 あの記憶の中では、自分の手を包むほど大きかった。今、頬に触れている手は、形も皮膚の感触も、何も知らない。


 知らない手だった。


 姉は主人公の顔を右へ向け、左へ戻した。


「……これ」


「何」


「まだやるんだ」


「何を」


「嫌なとき、左だけ口が下がる」


「下がってない」


「下がってる」


「下がってない」


 姉が息を吸った。


 笑ったような、泣き損ねたような音が漏れた。


「弟」


 その一言で、主人公の中に張っていたものが切れた。


「姉ちゃん」


「弟」


「ほんとに?」


「それ、私が聞きたい」


「俺だよ」


「生きてた」


「姉ちゃんも」


「生きてたよ」


 次の瞬間、姉の腕が背中へ回った。


「うわ」


 強い。


 主人公の身体が半歩、玄関側へ持っていかれる。


「痛い」


「ごめん」


 言いながら離れない。


「痛いって」


「分かってる」


「分かってないだろ」


「今は無理」


 主人公は腕を上げた。


 どこへ置けばいいのか、一瞬分からなかった。


 十八年前なら、こんなふうに姉を抱き返したことがあったのだろうか。思い出せない。


 だから、今の姉の背中へ手を置いた。


 服の布地も、肩の高さも、身体の匂いも知らない。


 なのに、姉だった。


「姉ちゃん」


「何回言うの」


「分かんない」


「いるよ」


「うん」


「ここにいるから」


「……うん」


 どれくらいそうしていたのか分からない。


 先に姉が顔を上げた。


「寒い」


「寒くない」


「私は寒いの」


「あ」


 玄関の扉は開いたままだった。


「入って」


 姉が身体をずらす。


 主人公は玄関の中を見た。


 靴がいくつもある。大人用だけではない。壁に掛けられた上着も、棚の小物も、全部知らないものだった。


 第39話で外から見た《生活》の続きが、家の中にもある。


「入っていいの?」


 姉が眉を寄せた。


「何言ってるの」


「いや、だって」


「弟でしょ」


 簡単に言った。


 十八年も空いていたのに、その一言だけは空白を数えなかった。


 主人公は靴を脱いだ。


「待って」


「何」


 姉がまた顔を覗き込んでくる。


「もう一回」


「何を」


「ちゃんと見る」


「さっき見ただろ」


「足りない」


 姉は少し離れて、頭から足まで眺めた。


「……大きくなった」


「当たり前」


「五歳だったのに」


「俺、ずっと五歳じゃない」


「知ってる」


 主人公も姉を見る。


 さっきは照合することしかできなかった。今度は、現在の顔として見る。


「姉ちゃんも変わった」


「十八年だからね」


「老けた」


 姉の目が細くなった。


「帰って」


「え」


「今すぐ帰って」


「入れって言っただろ」


「撤回しようかな」


 姉が笑った。


 主人公も笑った。


 声が少し変だった。


 泣いているわけではない。それでも喉の奥がうまく開かなかった。


 姉が先に廊下を歩き出す。


 主人公はその後ろについた。


 横へ下がった姉の手が見える。


 昔、自分の手を握っていたかもしれない手。


 けれど今は、握らない。


 必要がない。


 姉が振り返った。


「どうしたの?」


「何でもない」


「さっきからそれ多いね」


「昔から?」


「昔から」


 主人公の足が止まった。


「覚えてるの」


「覚えてるよ」


 答えは早かった。


「俺のこと」


「うん」


「ずっと?」


 姉も足を止めた。


「忘れてないよ」


 主人公は返事ができなかった。


 十八年を一言で埋めるには、その言葉は小さすぎた。


 けれど、だからこそ嘘には聞こえなかった。


 姉はそれ以上説明しなかった。


「お茶でいい?」


「うん」


「何か食べた?」


「食べた」


「ほんと?」


「ほんと」


「昔、食べてないのに食べたって言ったよね」


「五歳だろ」


「五歳でも嘘は嘘」


「覚えすぎ」


「姉だから」


 姉はまた歩き出した。


 主人公はその背中を見る。


 聞きたいことはいくらでもあった。


 本人申請のこと。移行のこと。十八年間のこと。パートナー。子供。昔の家。あの日の手。


 どれから聞けばいいのかも分からない。


 けれど今は、まだ聞かなかった。


 養父の言葉を思い出す。


『まず顔を見ろ』


 見た。


 記憶の中の顔とは違った。


 それでも姉だった。


 台所から声が飛んでくる。


「ほんとに帰ってきたんだね」


 主人公は少しだけ考えた。


 帰ってきた。


 その言葉が正しいのかは、まだ分からない。自分の帰る場所は地下だと思っていたし、この家に住んだことは一度もない。


 でも今だけは、訂正したくなかった。


「うん」


 答えてから、もう一つ付け足す。


「ただいま」


 台所で物音が止まった。


 数秒して、姉の声が返ってきた。


「おかえり」


 十八年前には返ってこなかった言葉が、今度はちゃんと届いた。

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