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第39話 呼び鈴


 紙に書かれた番地と、門の脇の表示が一致した。


 主人公は紙を見る。


 家を見る。


 もう一度、紙を見る。


「ここ」


 姉の家だった。


 今の姉の。


 想像していたより、ずっと普通の家だった。大きな門も警備設備もない。共生人が暮らす家だからといって、外から見て何か特別な印があるわけでもない。


 玄関。窓。自転車。軒下に干された布。小さな鉢植え。


 玄関脇には子供用らしいものも置いてある。


「……家」


 それ以上の言葉が出なかった。


 昨日まで《子供》は紙の上の文字だった。今は、その文字の持ち主がここで靴を脱ぎ、自転車に乗り、鉢植えの横を通って出入りしているらしい。


 主人公は門まで三歩のところで止まった。


 住所を確認する。


 合っている。


 一歩進む。


 また止まる。


「何してる」


 誰も答えない。


「行くんだろ」


 もう一歩。


 呼び鈴が見えた。


 指一本で押せる距離にある。


 主人公は手を上げた。


 下ろした。


「……何で」


 十八年、会いたかった。


 地上へ出た。研究棟へ入った。追われ、捕まり、逃げ、戻り、待った。番号を追い、行政窓口へ通い、初めて電車にも乗った。


 その全部より、目の前の小さなボタンの方が難しかった。


「小さすぎるだろ」


 呼び鈴に文句を言っても仕方がない。


 家の中で何かが落ちる音がした。


 主人公の足が半歩下がった。


「いる」


 家なのだから、誰かがいてもおかしくない。


 行政窓口では、今日のこの時間なら訪問してよいと確認している。


 それでも、壁一枚の向こうに本当に生活があると分かった瞬間、急に逃げたくなった。


「違う」


 下がった足を戻す。


 ポケットから紙を出した。


《生きてる》

《本人申請》

《仕事》

《パートナー》

《子供》

《住所》


「多い」


 少し前まで、姉はただ《姉ちゃん》だった。


 五歳の自分の手を引く人。呼べば振り向いたはずの人。十八年間、時間の止まった記憶の中にいる人。


 今は違う。


 知らないものが、いくつもある。


 姉は自分を覚えているのか。


 弟だと思っているのか。


 会いたかったのか。


 それとも、十八年のあいだに別の場所へ置いてきたのか。


 考えれば、いくらでも答えを作れた。


 主人公は紙を畳んだ。


「勝手に決めない」


 第38話でそう決めたばかりだった。


 分からないことは、本人に聞く。


 その本人は、たぶん、この扉の向こうにいる。


 主人公は呼び鈴へ手を伸ばした。


 あと数センチで止まる。


 昨日思い出した手が蘇った。


 自分より大きかった指。


 痛いほど強く握られていた感触。


『離さないで』


 そして、最後には離れた。


 誰が離したのかは、まだ分からない。


「今度は、自分で」


 呟いて、指を伸ばす。


 また止まった。


 玄関脇の子供用品が目に入った。


 名前が書いてあるかもしれない。近づけば読めるかもしれない。


 主人公は視線を外した。


「勝手に見るな」


 姉の子供。


 自分にとっては姪か甥になるのだろう。それ以上は知らない。


 会えたら聞けばいい。


 背後から足音が近づいた。


「すみません」


「あ」


 主人公は道を半分塞いでいた。慌てて脇へ寄る。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 通行人は主人公と家を一度だけ見て、そのまま歩いていった。


 急に、自分がひどく怪しい人間に思えてくる。


 十八年ぶりの弟が、姉の家の前で呼び鈴を見つめたまま動かない。


「最悪」


 主人公は額を押さえた。


「押せよ」


 誰に言うでもなく呟く。


 姉の名前を呼んでみようかと思った。


 やめた。


 昔なら、呼べば振り向いたのかもしれない。


 今は壁の向こうにいる。声が届く保証もない。


 だから、この家には呼び鈴がある。


 養父の声を思い出す。


『まず顔を見ろ』


 まだ見ていない。


 行政窓口の職員は言った。


『本人に聞くのが一番正確だと思います』


 まだ聞いていない。


 そして自分は、地下へ帰らずここへ来ると決めた。


「来た」


 ここまで来た。


 なら、残っているのは数センチだった。


 紙をポケットへ戻す。


 手を出す。


 呼び鈴へ指を触れた。


 表面は冷たかった。


 その瞬間、また昔の声がした気がした。


『離さないで』


 主人公は目を閉じる。


 あの言葉が誰のものだったのかは分からない。


 けれど、今ここで知りたいことは、十八年前の記憶だけではない。


 目を開く。


「分かんないことは、聞く」


 押した。


 家の中で、小さな音が鳴った。


 それだけだった。


 何かが劇的に変わるわけでもない。扉が勝手に開くわけでも、十八年が消えるわけでもない。


 主人公は指を離した。


 逃げなかった。


 二度目も押さない。


 待つ。


 数秒。


 家の奥で音がした。


 今度は分かる。


 足音だった。


 近づいてくる。


 主人公の手が震えた。


 一度握り、また開く。


 扉の向こうに、誰かがいる。


 姉かもしれない。


 違う人かもしれない。


 まだ決めない。


 名前を呼ぶ準備も、十八年分の言い訳もできなかった。


 主人公はただ、扉の前に立っていた。

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