第38話 手
旧家が見えなくなってしばらく歩いたところで、主人公は大きな交差点に出た。
信号が青へ変わり、人の群れがいっせいに動く。姉の現在住所ばかり見ていた主人公は、正面から来た子供と肩をぶつけた。
「あっ、ごめんなさい」
子供がよろけ、とっさに主人公の手を掴む。
小さな指だった。
「……」
「すみません」
後ろから来た親が頭を下げ、子供の手を引いていく。
「別に」
答えたのに、主人公は動けなかった。
今触れた手の感触に、別の手が重なっている。
もっと大きい。
少なくとも、五歳の自分にとっては。
指が絡み、痛いくらい強く握られている。
『離さないで』
主人公は息を止めた。
声だった。
女の声。
「……姉ちゃん?」
確信はない。
横断歩道の信号が点滅を始める。
「危ないですよ」
後ろの人に促されて、主人公はようやく走った。反対側へ渡り切ってから、自分の手を見る。
何も握っていない。
それでも掌だけが、まだ誰かの指を覚えているようだった。
姉の家へ向かって歩き直す。
ここから先の道に身体の記憶はなかった。旧家へ向かったときのように、坂や川が足を引くこともない。
当然だった。
今の姉が住んでいる場所は、自分の記憶には存在しない。
主人公は紙と番地表示を見比べて進む。
けれど意識は何度も、さっきの手へ戻った。
暗い。
人が多い。
誰かに押されている。
小さな自分の手を、少し大きな手が引いている。
『こっち』
走っている。
何から逃げているのかは見えない。
赤い光だった気がする。いや、白かったかもしれない。大きな音がしたような気もする。
顔は出てこない。
手だけが鮮明だった。
「姉ちゃん」
主人公は歩きながら、自分の手を握った。
次の断片は、さらに短かった。
汗ばんだ指。
人の身体がぶつかる。
前を走る誰かの肩。
泣き声なのか怒鳴り声なのか分からない声。
『離さ――』
手が滑る。
指が一本ずつ外れる。
最後の一本。
なくなる。
主人公は足を止めた。
「俺が離した?」
答えはない。
「姉ちゃんが?」
やはり何も出てこない。
誰かに引き離されたのかもしれない。転んだのかもしれない。姉が別の何かを掴もうとしたのかもしれない。
どれも作れる。
どれも、思い出したことではなかった。
行政記録にあったのは《混乱下》《家族分離》《弟:所在不明》。それ以上ではない。
「……分かんない」
以前なら、空白があること自体に耐えられなかった。
強制された。奪われた。誰かが悪い。
そう決めれば、怒る場所ができる。
けれど姉の移行記録を見てから、そのやり方を一度やめた。
分からないものを、分からないまま持って歩く。
気持ちは悪い。
それでも、嘘で埋めるよりはいい。
主人公は再び歩き出した。
通り沿いの小さな店で、店員が積み上げた箱を運んでいる。上の一箱が傾いた。
主人公の身体が先に動いた。
「持つ?」
「え?」
「それ。落ちそう」
「あ、大丈夫です」
「そう」
通り過ぎる。
三歩進んだところで、後ろから声が飛んだ。
「やっぱ一個お願い!」
主人公は戻った。
「どれ」
「一番上。そこへ置いてもらえます?」
箱を持ち上げる。軽い。指示された台へ置く。
「助かりました」
「うん」
それだけだった。
店を離れてから、また手を見る。
今、自分は何かを持った。
そして離した。
何も失わなかった。
手を離すことは、それだけでは何も意味しない。
だから十八年前の最後の感触だけで、あのとき起きたことを決めることもできない。
住宅地へ入る。
紙に書かれた番地との差が小さくなるにつれ、主人公の歩幅も少しずつ小さくなった。
「何で」
会いたかった。
地上へ出た理由の一つが、それだった。
生きていると分かったときは、今すぐ会いに行きたかった。
なのに近づくほど、足が遅くなる。
主人公は自分の掌を開いた。
顔より先に思い出したのは、姉の手だった。
けれど、その手も今の姉のものではない。
十八年前の、まだ子供だった姉の手だ。
今の姉は働いている。誰かと暮らしている。子供がいる。自分で移行を申請した記録もある。
自分の知らない十八年を、その手で生きてきた。
角を一つ曲がる。
主人公はポケットから紙を取り出した。何度も開いたせいで折り目が白くなり、昨日ついた泥が端に残っている。
《生きてる》
《本人申請》
《仕事》
《パートナー》
《子供》
《住所》
順番に指で押さえる。
「今の姉ちゃん」
会いに行くのは、手の記憶の中にいる姉ではない。
この紙の先で、今も生活している人だ。
会えば全部分かるとは限らない。
姉だって覚えていないかもしれない。答えたくないこともあるかもしれない。
それでも、自分の中の空白だけで姉を作るよりいい。
分からないことは、聞く。
覚えていないことは、作らない。
また一瞬だけ、昔の声が戻った。
『離さないで』
誰が言ったのかは、まだ分からない。
主人公はその言葉を答えにしなかった。
手を開き、住所の紙を持ち直す。
姉の家まで、あと少しだった。




