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第37話 他人の家


 旧家を離れて百メートルほど歩いたところで、主人公はポケットへ手を入れた。


「……ない」


 右。左。上着の内側。


 姉の現在住所はある。生活券も身分確認書類もある。


 ないのは、姉を追い始めてからずっと持っていた番号の紙だった。


 裏には《生きてる》と書いてある。


「最悪」


 主人公は来た道を走って戻った。


 旧家の門が見える。その少し手前、道路の端に白い紙が落ちていた。


「あった」


 拾い上げる。端に泥がついていたが、《生きてる》の文字は読める。


 指で泥を払っていると、目の前で玄関が開いた。


「いってきます!」


 鞄を背負った子供が飛び出してくる。片方の靴紐がほどけたままだった。


「待って、靴!」


 家の中から声が飛ぶ。


「大丈夫!」


「大丈夫じゃない!」


 子供は門まで来て、主人公に気づいた。


「誰?」


「紙、落とした」


「うちに用?」


 その一言に、主人公は家を見た。


 うち。


 子供にとっては、疑う理由もない言葉だった。


「……違う」


「じゃあ何してるの?」


「だから紙」


「ふーん」


 後ろから大人が出てきた。腕が三本ある。二本で荷物を抱え、残った一本で玄関の鍵を閉めている。


「すみません。この子が何か?」


「何もしてない」


「そうですか。何か御用でした?」


「ない」


 そう答えたのに、主人公の視線は家から離れなかった。


「ここ……」


「はい?」


 昔、俺の家だった。


 そこまで出かかって、飲み込んだ。


「古い?」


 代わりに妙なことを聞いた。


 大人は家を振り返る。


「それなりに。建て直した部分もありますよ。基礎は前のものを使ってるって聞きましたけど」


「基礎」


「前からこの辺に住んでたんですか?」


「昔。たぶん」


「そうなんですね」


 それ以上、相手は聞かなかった。


「遅れる!」


 子供が先へ走る。


「だから靴紐!」


「もう結んだ!」


 大人が追いかける。三本の腕のうち一本が子供の鞄を掴み、残り二本で荷物を持ち直した。


 二人は角を曲がり、見えなくなった。


 主人公は閉じた門の前に残った。


「基礎……」


 もちろん道路からは見えない。


 今の壁も窓も知らない。それでも、この下のどこかには昔の家の一部が残っているらしい。


「俺の家」


 言ってみる。


 違和感があった。


 間違いではない。五歳まで本当にここで暮らしていたのなら、昔は自分の家だった。


 けれど、さっきの子供も迷わず《うち》と言った。


「……両方か」


 最近、そういうものが増えた。


 人間か、異形か。被害者か、加害者か。拒否したのか、選んだのか。


 片方だけにすれば簡単なのに、現実はなかなか一つにならない。


 主人公は門へ手を伸ばしかけ、やめた。


 第36話で呼び鈴を押さなかったのは正解だった。


 もし押していたら、何を言っただろう。


《ここは俺の家です》


 十八年間いなかった自分が、今ここで靴紐を結び、学校へ行き、傘を置いて暮らしている子供に。


 何を返せと言うのか。


 部屋か。玄関か。見えもしない基礎か。


 地下では何度も聞いた。


 地上は自分たちのものだった。奪われた。占領された。戻れば取り返せる。


 言葉だけなら分かりやすかった。


 けれど今、目の前にあるのは《占領》ではない。


 子供の傘があり、窓辺に鉢植えがあり、朝になれば誰かが「いってきます」と出てくる家だった。


「返せって……誰に」


 誰も答えない。


 向かいの家の窓が開いた。


「すみませーん、そこ車来ますよ」


「あ」


 いつの間にか道路へ出ていた。主人公が端へ寄ると、配送車が通り過ぎる。


「ありがとうございます」


「いえー」


 窓はすぐ閉まった。


 向かいの住人は、主人公が昔ここに住んでいたことなど知らない。知らなくても、この通りの朝は普通に続いている。


 主人公は二枚の紙を出した。


 一枚には旧住所。もう一枚には姉の現在住所。


 同じ姉に繋がるはずなのに、場所はまるで違う。


 姉はここへ戻っていない。


 少なくとも今は、別の場所で働き、誰かと暮らし、子供を育てている。


「帰る場所……」


 自分なら地下と答える。


 姉はどう答えるのだろう。


 昔のこの家なのか。今の家なのか。それとも、そんな聞き方自体が違うのか。


 まだ本人に聞いていない。


「勝手に決めない」


 口に出すと、少しだけ腹が立った。最近そればかりだ。


 それでも番号の紙についた泥を丁寧に拭き、《生きてる》の文字を確かめる。


 折ってポケットへしまった。


 旧家を見る。


「じゃあ、行ってくる」


 返事はない。


 それでよかった。


 歩き出す。


 角を曲がる直前、一度だけ振り返った。


 家はほとんど見えなくなっていて、門の内側に子供の傘だけが残っている。


 自分の家だった。


 それは消さなくていい。


 今は、他人の家だ。


 それも消す必要はない。


 主人公は今度こそ振り返らず、姉の現在住所へ向かった。

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