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第36話 覚えている道


 駅を背に歩き始めて、最初の角で主人公は止まった。


 紙には《東口を出て左》とある。さっき出口番号まで確かめたのだから、間違える余地はない。


 それでも足は、右へ向きたがっていた。


「……何で」


 右手には緩い坂がある。その先で道が細くなり、住宅の間へ消えている。見覚えがある、と言い切れるほどのものは何もない。建物も看板も知らない。


 主人公は左へ一歩踏み出した。


 止まった。


 もう一度、右を見る。


「姉ちゃんは左」


 自分に言い聞かせるように呟いた。それでも胸の奥に、小さな引っ掛かりが残る。


 十八年ぶりに姉へ会いに来た。寄り道をする理由などない。


 なのに、右の坂を見ていると、身体のどこかが先を知っている気がした。


「……ちょっとだけ」


 主人公は紙をポケットへしまい、右へ曲がった。


 坂を下る。


 数十歩進んだところで、左側の塀を見て足が緩んだ。新しいコンクリートの塀だった。腰より高い。


「ここ、低かった」


 口に出してから、自分で眉を寄せる。


 何が低かったのか分からない。塀だったのか、家だったのか、それとも道との高低差だったのか。


 記憶の中には、低い何かと、その向こうの赤い色だけがある。


「花……?」


 違うかもしれない。


 主人公は歩き続けた。


 大きな交差点に出る。車が途切れず流れ、信号機が頭上に張り出している。ここまで来ると、記憶と呼べるものはほとんど消えた。


「違った?」


 引き返そうとして、足元の傾斜に気づく。


 道路がわずかに下っている。


 その角度だけが妙に馴染んだ。


「こっち」


 信号を渡り、細い路地へ入る。


 数歩だけ走ったところで、突然、声が蘇った。


『走るな』


 主人公は振り返る。


 誰もいない。


 今の声ではない。もっと昔の、女の声だった。


「……姉ちゃん?」


 返事はない。


 顔は浮かばなかった。声も、本当に姉のものだったのか自信はない。それでも足は止まらず、路地の先へ進んだ。


 小さな公園があった。


 遊具は新しい。地面も舗装されている。それなのに、滑り台を見た瞬間、膝の奥が妙に疼いた。


 主人公は近づき、手すりへ触れる。


 冷たい金属の感触に重なるように、小さな手と赤く擦れた膝が一瞬だけ浮かんだ。


「転んだ?」


 覚えていない。


 そのとき姉がいたような気もする。泣いていた自分を怒ったのか、慰めたのか、それさえ出てこない。


「覚えてる」


 言ってから、すぐ訂正した。


「……たぶん」


 公園のベンチでは、皮膚の一部が樹皮のように厚くなった老人が新聞を読んでいた。主人公が周囲を何度も見回しているのに気づき、紙面から目を上げる。


「何か探してる?」


「昔。この辺、知ってた」


「いつ頃?」


「十八年以上前」


「そりゃ変わるよ」


 主人公は公園を振り返った。


「ここ、昔も公園?」


「さあ。俺は十二年前に越してきたからね」


「知らないの?」


「十八年前はな」


「地上の人なのに」


 老人は少し笑った。


「地上も広いよ」


「そうなの」


「そうだよ」


 それだけ言って、老人は新聞へ戻った。


 地上にいる人間なら地上のことを知っている。どこかでそう思っていたらしい。けれど、知らない人は普通に知らない。


 主人公もまた歩き出す。


 道は、合っているようで合わなかった。


 曲がり角には覚えがある。そこに建つ家は知らない。坂の傾きには身体が反応するのに、並ぶ店には何の記憶もない。


 甘い匂いがして足を止めた。


「これ」


 焼き菓子の店だった。


 昔もここにあったのかと思い、看板を見る。《創業十一年》。主人公が地下へ落ちたあとにできた店だ。


「違う」


 似た匂いを、どこかで嗅いだだけなのかもしれない。


 記憶は道案内としてはひどく頼りなかった。それでも、完全な嘘でもなかった。


 やがて小さな川へ出た。


 橋を見た瞬間、今までとは違う確信が来た。


「これ、知ってる」


 欄干は新しくなっている。水が同じかどうかなど分かるはずもない。


 けれど川幅と、向こう岸へ続く道を見たとき、胸の奥が強く引かれた。


「家」


 言葉が勝手に出た。


 主人公は姉の現在住所を取り出す。


 方向が違う。


 今から会いに行く姉は、この先には住んでいない。


 それでも主人公は橋を渡った。


 右へ曲がり、迷って戻り、一本隣の道へ入る。昔ならもっと小さかった身体が覚えている道を、今の身体で探す。


 やがて住宅街の一角で足が止まった。


「……ここ」


 新しい家。古い家。駐車場。植木。自転車。洗濯物。


 どれも知らない。


 なのに、この辺りだと胸だけが言っている。


 主人公はポケットからもう一枚の情報を取り出した。行政窓口で何度も見た旧住所。その番地を探す。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


「あった」


 数字が一致した。


 そこに建っていたのは、知らない家だった。


 もう一度番地を見る。間違っていない。


「ここだった」


 門の表札には、知らない名字がある。玄関には小さな靴が二足。傘と植木鉢が置かれ、窓にはカーテンが掛かっている。


 誰かが普通に暮らしている。


 主人公は道路の向こう側から家を見た。


 五歳まで、自分はここにいたのかもしれない。姉と、家族と。


 けれど壁も窓も、何一つ思い出せない。


 門の前まで行く。


 呼び鈴を見る。


 指は伸ばさなかった。


 ここは姉の家ではない。十八年前を知りたいからといって、今ここに住む誰かを呼び出しても、失った時間が戻ってくるわけではない。


「覚えてた」


 少しだけ。


 全部ではない。間違いもした。匂いにも騙された。知らないものの方がずっと多い。


 それでも駅を出たとき右へ行きたがった足は、ここへ来ようとしていた。


 主人公は旧家をもう一度見た。


 それから、姉の現在住所を開く。


 過去へ来る道は、身体が少し覚えていた。


 今の姉へ行く道は、紙に書いてある。


「今度は、こっち」


 主人公は現在住所の方角へ歩き出した。

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