第35話 走る地下鉄
線路の奥から風が押し寄せた。
主人公はホームの端から少し離れ、暗いトンネルを見つめる。地下の穴なら知っている。水が落ち、錆が浮き、配管が走り、人が歩き、ときにはそのすぐ脇で眠る。暗闇の奥にあるのは、たいてい同じ暗闇だった。
ところが今日は、その奥に白い光が生まれた。
「来た」
光は急速に大きくなり、轟音と一緒に車体がホームへ滑り込んできた。思わず一歩下がる。窓の向こうには、人、人、人。立っている者も、座っている者もいる。
「多い」
扉が開くと、降りる人と乗る人がほとんど同時に動き始めた。主人公だけが流れの真ん中で止まる。
「乗らないんですか?」
後ろの人に言われて我に返った。
「乗る」
閉まりかけた扉へ慌てて身体を滑り込ませる。背後で扉が閉じ、次の瞬間には床が足の下から動いた。
「……速い」
加速に身体を持っていかれ、近くの手すりを掴む。
窓の外を黒い壁と灯りが交互に流れていく。地下なのに歩かない。這わない。梯子もない。扉を一枚ずつ確かめる必要もない。何百人もの人間を、暗闇の中でまとめて運んでいる。
しかも、誰も怖がっていない。
向かいの会社員など、目を閉じて眠っている。
「寝るの?」
会社員が片目を開けた。
「すみません」
「何が」
「いえ……」
また目を閉じる。
「寝るんだ」
小さく呟いたところで車体が揺れた。今度は手すりから手を離していたため、主人公の身体が横へ流れる。
「うわ」
慌てて吊り革を掴むと、向かいにいた子供が笑った。頭の横に薄い膜のような器官があり、笑うたび小さく震えている。
「初めて?」
「違う」
「電車」
「……初めて」
「じゃあ初めてじゃん」
隣にいた母親らしい人が子供の肩へ手を置いた。
「すみません、勝手に話しかけて」
「別に」
子供はまだ主人公を見ている。
「どこ行くの?」
「姉ちゃんの家」
「会いに?」
「うん。十八年ぶり」
口にしてから、なぜ知らない子供に言ったのか自分でも分からなくなった。
「すっご」
「すごくない」
「顔、分かる?」
答えようとして止まる。
五歳の自分の手を引く姉。振り返った顔。声。記憶には残っている。
けれど、それは十八年前の顔だ。
「……たぶん」
「どっち?」
「うるさい」
母親が今度こそ本気で謝り、主人公は少しだけ笑った。
いくつか駅を通り過ぎた。停車するたび大量の人が降り、また別の人が乗ってくる。
主人公はホームを見る。
同じ地下なのに、そこにはベッドも貯水槽も非常食の箱もない。代わりに広告、店、案内板、消火設備、トイレ、地上へ続く出口がある。
ここは人が生き延びるために閉じこもる地下ではない。
地上で暮らす人間が、次の場所へ行くために使う地下だった。
「地下なのに」
呟いた声は走行音に消えた。
乗換駅で降りる。人の流れについて歩きかけて、途中で立ち止まった。
「どっち」
頭上を見る。《乗換→》の表示がある。昨日なら誰かに聞くところだったが、今日はまず紙と表示を見比べた。
矢印の先へ進む。
階段を下り、さらに地下へ潜るにつれて、身体の力が少し抜けた。天井が近い。壁も近い。空が見えない。それだけで呼吸が楽になる自分がいる。
「……こっちの方がいい」
けれど、知っている地下とは匂いが違った。
湿った土も、古い布も、煮炊きの匂いもない。人の寝息も聞こえない。風は機械が送り、床は乾き、照明は一定の明るさを保っている。
壁の向こうを別の電車が轟音とともに通り過ぎた。
「うるさい」
地下なのに静かではない。
次のホームへ着く。路線色を確かめる。合っている。
電車が来ると、今度は迷わず乗った。発車前から吊り革を掴んでおく。
「慣れた」
誰にも聞こえない声で言った。
発車する。身体が傾く。今度は足を少し開き、揺れに合わせるだけで済んだ。
しばらくして、窓の外が突然明るくなった。
「うわ」
トンネルが途切れ、空と建物と道路が一度に視界へ飛び込んでくる。
地下を走っていた電車が、そのまま地上へ出た。
大扉も検問もない。境界を越える許可を求められることもない。ただ線路が続き、その上を同じ車体が走っている。
「そんなのでいいの」
誰も答えない。
乗客たちは窓の外さえろくに見ない。それが当たり前なのだ。
主人公はしばらく、地下と地上を一本の線路が繋いでいるのを眺めていた。
やがて目的の駅名が表示される。
さっきの子供も同じ駅で降りた。
「姉ちゃん!」
「違う」
「知ってる!」
子供は笑い、母親に手を引かれて人混みへ消えていった。
主人公は住所の紙を開く。
今度は駅員を呼ぶ前に、出口案内を見る。住所に近い出口番号を見つけ、紙の記載と照らし合わせた。
「あっち」
改札を抜け、階段を上がる。
空が見えた瞬間、まだ少しだけ身体が強張った。それでも立ち止まらず、地上へ出る。
振り返れば、駅の入口が地下へ口を開けていた。
昨日までなら、穴は潜るものか、隠れるものか、帰るものだった。
今は違う。
あの地下は、自分をここまで運んできた。
主人公は住所を持ち直した。
姉は、この街のどこかにいる。
駅を背にして、歩き始めた。




